達谷窟―たっこくのいわや―

不意に思い立って、平泉に立ち寄ってから、陸前高田に入ろうと思ったのだが、一関、平泉、水沢、北上、花巻、いずれも宿が取れず、仙台を拠点に動くことに……。
赤坂憲雄が言うところの「蝦夷の東北」を垣間見たいと思っていた。

平泉から一関に向けて車を走らせると、達谷窟という坂上田村麻呂創建と伝えられる毘沙門堂がある。赤坂憲雄『東北学/失われた東北』に曰く、「延暦二十(八〇一)年、征夷大将軍坂上田村麻呂は、達谷の窟に籠もって抵抗する悪路王らの夷賊を激戦のすえに、ついに打ち破った。田村麻呂は多聞天の加護によって蝦夷平定が果たされたことを喜び、この地に毘沙門堂を建立した…(中略)…以来、北方鎮護の祈願所に定めた」。

これはあくまで征服したほうの史観に則って記述されたもので、赤坂憲雄が言うように、敗北した蝦夷たちの忘れられた記憶に寄り添って歴史を記述するならばどうなるのだろう。征服された民は、征服者たちの神々をどのような思いで受け容れていったのだろう。ここには恐ろしいくらいに見事な記憶喪失があるようにも思える。

覆いかぶさるような断崖の窟(いわや)を利用して建てられた毘沙門堂の中に入ってみれば、なにやら穏やかならぬ空気が張り詰めていて、鳥肌が立つ。この境内にある姫待不動堂の不動明王は凄まじい迫力がある。この不動明王に参る時は、一生に一度の大願の時なのだそうだ。



毘沙門堂の脇の崖には、大仏が彫られている。明治時代の大地震で首から下が崩落したということで、今も残っているのは首から上の部分だけ。

宮沢賢治の「原体剣舞連」にはこうある。
むかし達谷の悪路王/まつくらくらの二里の洞/わたるは夢と黒夜神/首は刻まれ漬けられ


赤坂憲雄によれば、悪路王は東北一円に流布されてきた伝説のなかの蝦夷の首長であり、王。