イヤダカラ、イヤダ

現代思想』10月号 特集「反原発の思想」を読む。
鎌田慧さんが書いている。「反原発運動は論理的には負けませんでした。原発に対する批判は正しかったし、今回の事故によってその正しさは証明されてしまった」。

確かにそうだ。たとえば、子どもにもわかるよう、実に平易に原発の危険性を説いた『原発を考える50話』(岩波ジュニア新書 西尾漠 1996年刊)読めば、1990年代に既に今回の原発事故はすべて「想定内」のこととしてきちんと論理的に書かれている。
でも、「推進派が説得に使う論理は「安全」で、こちらの論理は「危険」でした。安全と危険がまっこうから対立していたのです。しかし、いつも彼らは「安全」の上に「絶対」をつけてきました。「絶対安全」です。そうなるとその絶対安全に「絶対危険」を対峙させても、どうしても絶対安全のほうが強い。なぜなら絶対危険をさらに強調する論理はないからです。危険であることを証明してしまったら、さらに危険を強調することは難しい。それに対して、絶対安全の論理を支えるのは、最終的にその責任を誰かが取るということです。誰が取るのか」。

誰?

「国が安全を絶対的に保証してしまえば、あとは違う国が危険だと言って戦争で決着をつけるしかありません。その次元でしか決着がつかないのです」。

それは困った……。

「反対派に国家の保証はないのです。せいぜい個人が保証したところで、たかが知れています」「今までのような危険の論理は、事故が発生しなければ証明できない。…中略…次の事故が起きなければ証明できない論理では、これに勝つことはできない」
つまりは論理ではないところで決着のつく議論に、どう立ち向かう?
「そうした歴史を踏まえた上で、反原発の運動から何を見出すべきか。私はそれを『拒絶の思想』だと考えています」「はなから交渉に応じない」「「民主主義では敵の言い分も聞かなければならない」などとよく言われますが、原発を建設しようとする側とは論争にもならない。科学的な論争にもならない。推進派のやることは、…中略…つまるところ金で反対派を潰すことでしかありません。「相手の話を聞かなければならない」「対案を出せ」ということでは、その交渉が始まってしまうのです」

なるほどね……

「「拒否は論理的ではない、感情敵で頑固でしょうがない」と言われるけれど、だからこそ敵に対しては強いのです」

確かにそうだ……。そもそも相手が既に論理ではなく、力で圧倒しようしているときには……。

「ただ、拒絶は孤立でもあります。ですから孤立と連帯の関係も問われることになります。まずは孤立して頑張っている人たちが庶民の中にいたことに光が当てられなければならない。その上で連帯をどうつくっていくのかが問われるはずです」


問い。拒絶する、そして、つながる。 つながりなおすための、拒絶。

唐突に、「切れて、つながる」と言い続けてきた詩人金時鐘を思う。

脈絡なく、一貫して「イヤダカラ、イヤダ」の境地で生きて書いた内田百輭を思う。

文学の領域から立ち上げる「拒絶の思想」を思う。