まことにしんぬ

日曜日にぶらりと上野へ。国立博物館に『法然 親鸞 ゆかりの名宝展』を観に。しかし、人、人、人の海、群生海、衆生海、無明海
教行信証』にいわく、「しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に枕迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし」 「如来苦悩の群生海を悲嘆して、無礙廣大の浄信をもて諸有海に廻施したまへり。これを利他眞實の信心となづく 本願信心の願成就の文、経にのたまく、あらゆる衆生、その名号をききて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」

人の海に揺られながら、「眞實の信心」を追求し、仏典を渉猟し、頭で学んだことがすとんと身に落ちるまで、みずからの言葉で語りだしうるまで、煩悩を超える言葉をつかみとるまで、考え抜き、感じ抜いた親鸞という人を想った。

論証を重ねた果てに、親鸞が書かずにおれなかった言葉を想う。
「まことにしんぬ。かなしきかな愚禿鸞、愛欲の廣海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、
眞證の證にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし」


はづべしいたむべし。まだこの言葉を吐く境涯にすら達していない自らを思う。