悪魔より怖い

『日本のミイラ仏を訪ねて』(土方正志 写真:酒井敦 晶文社)をぱらぱらと眺める。即身仏。新潟・柏崎市信越線長島の駅から徒歩30分ほどの山中の真珠院にも即身仏となった秀快上人が石棺のなかでお眠りになっているという。ああ、そうか、東北ばかりでなく、ここにもね…。
著者の土方さんはあとがきにこう書く。
「生と死が交錯する現場で、ぼくはいつも即身仏さんたちを思い浮かべるようになってしまった」「昔からそうだったのではないか。飢饉や疫病におそわれて、人がばたばたと死ぬ。民衆救済を祈願して修行者が土中入定を遂げる。その崇高な行為に、人びとが手を合わせる。……それだけではなかったのではないか。みんな死ぬとこうなるんだなあ、生と死は別物ではなくて、即身仏さんと自分がこうして向い合わせに座っているように、コインの裏と表ぐらいの違いしかないんだなあ。そんな冷厳な事実を目の当たりに見せてくれる宗教的な装置。それが即身仏という存在だったのではないか」


辺見庸『生首』(毎日新聞社)所収「善魔論」より
海市。わたしは終わった。あなたも終わっている。わたしたちはもう終わっているのだ。とうに尽きはてている。なのに、いじましく引きのばされている。果てない谺のように。いつまでも引きのばされる谺に善も悪もありはしない。あるとすれば虚だけだ。すべての事後に、わたしたちは虚数として生かされている。もう終わった声(谺)を聞かされ、もう終わった光景(海市)を見せられて。
すべての事後に、神が死んだのではない。すべての事後の虚に、悪魔がついに死にたえたのだ。
(後略)

「虚」に死に絶えるなまっちょろい悪魔より怖い善魔、私はそれをいやんなるほど知っているように思う。

身に沁みついた風邪。昨日より再び発熱。ついに根負けして(?)、病院に行く。抗生剤をのむ。