綿の花

原発から20キロ圏内、立ち入り禁止区域ぎりぎりまで、出かけてみた。
きっちりと几帳面に封鎖されている3か所の地点まで、車を走らせた。さすがに広野町のJ VILLAGEのあたりは警察車やら警備の人びとやらものものしく、間の悪いことに(間のいいことに?)、年代物の私のデジカメがいきなり壊れてウンともスンとも言わなくなり、以下の画像は、あとから持っていることを思い出したおもちゃのような携帯電話のカメラでとったもの。
  

常磐線は広野まで。広野から先、原ノ町までは、まだ不通。原ノ町〜相馬間は走り、相馬から亘理も不通。
    
広野駅のホームには、童謡「汽車」の歌碑。駅員さんから、「撮影は歌碑だけ、風景はだめよ」と、ホームに入る際に念押しされた。だからホームの様子は駅の外から撮っている。見ての通り、ホームはまだ仮設。広野駅に特急が止まるようにするために、町民にみなさん出来るだけ広野駅で乗降しましょうという趣旨のことを呼びかける看板が駅構内にあった。いま、町には全く暮らしの息吹はない。

   
広野の町なかに開店しているスーパーを見つけたと思ったのもぬか喜び。スーパーは20キロ圏内で作業する人々の宿泊所か休養所になっている模様だった。
  

J VILLAGE周辺をぶらぶら。作業服を着ている人々が目立つ中で、普通にぶらぶらしているのは、ちょっと目立つのだけど、まあ、ぶらぶら。ここではだいたい0.8から0.9マイクロシーベルトで、立ち入り禁止区域のほうに手を差し伸べて測れば、1ミリシーベルトを軽く超えましたねぇ。
      

久が浜。浜辺の周辺には、まだ、津波でつぶれた車とか船とか。風が吹くと砂が薄い紗の幕のようになって足元をすすすすと這い、風紋が浜を走る。
  

小名浜港ではメヒカリとヤナギを買った。市場と同じ建物の2階で「東日本大震災 いわきの「歩み」と「学び」展という展示をしていた。震災直後の避難所の段ボールで仕切られた生活スペースの再現や、母を亡くした女子高生が見つからぬ母を探す震災直後の日々の中で初めて避難所でおにぎりをもらったときの心情を淡々とつづった文章や……。困ったな、連れがいるというのに、やや涙がにじむ。こっそり涙をのみこむ。

そういえば、J VILLAGEのあたりの茂みでは、綿の花が咲いていた。摘んで持って帰りたかったが、線量を思い、ただ愛でてきた。あと一か月で、3・111周年。