しがみつかない

眠い。この3日間ほど、眠りが足りない。『整体。共鳴から始まる』(ちくま文庫 片山洋次郎)を眺める。

「乳幼児が言葉を発するようになる前に、自分の持っているものを人に渡し、また受け取ろうとする時期がある。この「あげる」「もらう」という行為が、言語的コミュニケーションの開始を促す。身体的共鳴は自他が同時に反応するコミュニケーションであるが、言語的コミュニケーションでは行く(あげる)方向と来る(もらう)方向に分裂する。共鳴という自他未分の状態から、自他の分別されたコミュニケーションへと「発達」してしまうと、“共鳴”は言語や知覚に完全に覆われてしまって見えなくなってしまう」
ふむ。なるほど。

「世界をまるごと、ありのままとらえられないのは、ヒトが「知覚する身体」をもっているからであり、言語や価値観といった情報フィルターを通して世界を再構成するからである。一方でどのように緻密にできていても、その「作られた世界」には必ず破れがあって、目には見えない世界の全体性へもつながっている。この知覚されない、あるがままの世界が気的世界であり、胎児の世界でもある」

ふむふむ。

「気的世界が日常世界と接しているのは、「いま・ここ」という一点である。身体は常に「いま・ここ」を生きている。だから身体という場の危機は、同時に「いま・ここ」という場の萎縮でもある。「いま・ここ」というのは「一寸先は闇」ということであり、あらゆる「生の不安」のもとでもあるが、もう一方で、その一点の見えない世界へのつながりが「生の充実」の根拠でもある。何かにしがみついている手を放して「いま・ここ」の流れに身を投げ出してしまうと、意外と不安や恐怖といったものが消えてゆき、充足感と安心感に取って代わるのである」

なるほどねぇ、見えない世界へのつながりが、生の充実の根拠、か……。

「日常とは「いま・ここ」を脱落させた、平均化された意識が見ている世界であり、瞬間の身体の加速に意識を合わせず、予定調和にモノゴトを見る一種の知恵である」

予定調和、もしくは条件反射という知恵。しがみつく生き方。気的世界を知らぬ生き方。共鳴しない生き方。

「とくに激しく加速する現在の世界を生きるためには、「いま・ここ」に身を投げ出す気構えというものが、かなり大事だと思うのだ」

うん、うん、うん。身を投げ出す気構えを持とうにも、だんだん眠い、かなり眠い、もう寝よう。