穴を語る

横浜、鶴見、総持寺。小さい人のお供をしてお寺に参拝。小さい人は門のところで睨みをきかせる大きな仁王像はちっとも怖がらず、むしろ好きなくらいのようだが、総持寺にある日本一の大黒天(と言ってもそう大きくはない)については腰が抜けるほど怖いらしい。大黒天は小さい人たちが大好きなまん丸のフォルムなのだが。

今日は小さい人と一緒に祈るということをしようと思っていた。これは言葉で説明することではなく、カラダで伝えること。

「痛み」について考えている。現代思想2011年8月号『特集 痛むカラダ』を今さらながら読み、読み進むほどに言葉を失いつつある。もっと深刻に言葉について、語るということについて、語らないということについて考えること、向き合うこと、それが必要。

痛み:現実のあるいは潜在的な組織損傷に結びついた、またはそうした損傷に関する用語で表現された不快な感覚および情動の経験。痛みは常に主観的である。(国際疼痛委員会)

痛みとは、「非文脈的」であり、「文脈を切断する力」を持つ。「自分の痛みは自分のものであり、訪れる痛みを受苦すること。そしてそれが痛みであると他者に承認されること。しかし他者に剥奪され侵入されてはならないこと」(信田さよ子


「三月十一日以降、私たちは、「他者の痛み」を領有する力のただ中を生きているのかもしれない」「まるきり、英雄や殉死者のようにして表象される無言の死者たち。そこで賭けられているのは、共約不可能なはずの「痛み」をめぐって、他者に想像的な同一化をすることに対して、どれだけ抵抗がすることができるかということではないだろうか」
「私たちは「すでにある言葉」によってしか、私たちの生における「痛みの現実」を表しえない」「私たちは、これまで、どれほど多くの「痛み」を、表象不可能なもの、認識不可能なものとして排除してきたのだろうか。私たちは、はじめから、「痛み」へと繋がる通路が封鎖されていることに抗って、どのように、「痛み」をめぐって、言葉を抵抗点としながら新たなつながりをつくることができるだろうか」(岩川大祐)


「物語化できない記憶」「物語化できない経験に関する痛み」「新しい傷」について――。
「物語の特徴は、最終的にはハッピーエンドになるということです。……ただ同時に……物語としてちゃんと成り立つためには、いったん悲劇的な目に遭わないといけない。……どんな物語も、いったんはネガティブな破局に至るかもしれないという瞬間を、内部に含んでいなくてはいけないのです。……物語は物語そのものの危機と隣接している。だからこそ痛みというのは物語とすごく関係があるわけです。痛みとは物語にポジティブに回収しないかもしれない「穴」ですね。その「穴」をついに回収できなかったら、……「新しい傷」になってしまう。回収できれば、つまり物語の目的論的な過程の中で解釈できれば、それは古典的な傷として癒される。」(大沢真幸)


「穴」をいかにして語るか、あるいは、いかにして語らずして語りおおせるか。