未来の他者をいかにして、ここに、現在に呼び寄せるか?

わけあって、また引っ越し。この5年間に6回目の引っ越し。横浜市内を近距離移転。さすがに疲れた、と思いつつも、かなり心が弾んでいるような気がしなくもない。引っ越しは5月、懲りない引っ越しマニア、あと一月、かなりうきうき。


大澤真幸『夢より深い覚醒』(岩波新書)。
原発について考え、選択するためには、未来の他者とのある種の連帯が必要だ」→「未来の他者はどこか遠くにいるわけでもなければ、われわれの超人的な想像力によって表象されるわけでもなく、現在のわれわれとともに、ここいるのだ」→「しかし、未来の他者をわれわれの内に喚起するためには、触媒が必要だ」→「触媒とは、前未来(未来完了)の観点から、現在のわれわれを見返す第三者の審級である」→「前未来の観点にある第三者の審級――「それはすでに終わってしまっているだろう」という観点からわれわれを観る第三者の審級」」→「無知な指導者、懐疑する指導者という像は、この前未来の第三者の審級として機能する」

つまり、
「未来の他者は、極大の不確定性をもつ点において、他の他者たちと質的に区別される。彼らがどんな意志をもち、何を欲望するのかまったく不確定である。そもそも彼らが存在することになるのかどうかすらわからない。ところで、真理を知らず、自分が何を知っているかも知らず、また自分が信ずるべきことについても懐疑している指導者(第三者の審級)は、つまり、自分自身をひとつの謎として引き受けるしかない指導者(第三者の審級)は、まさに、このような意味での未来の他者と同じ本性を持っていると言えるのではないか」→「無知で、懐疑する指導者が、前未来の第三者の審級でもある、というのはこのような意味においてである」


第三者の審級が、その不確実性において立ち現れるとき、それは未来の他者、われわれの現在を前未来の立場から見返す他者の等価物になりうるのだ。

「未来の他者」という存在を介して、いま、ここに呼び戻されるべきものを考える。