5月1日に引っ越しをして、ばたばたと荷物の整理をして、ようやく落ち着いた。
ああああ、疲れた。もう100年くらいは引っ越ししたくない。
荷物整理の合間合間に、わけあって、石牟礼道子全集を繙き、小田和正の音楽を片っ端から聴いている。
石牟礼さんの講演「生命の連鎖する世界から」(石牟礼道子全集 不知火 第7巻)より抜粋。
「一人の人間が死にますときに、伝えられなかった念いというのがずうっと昔からあると思うんですね。断念してきた念いが。一番深い念いを断念してひとりの胸に呑み下してきて、伝えられなかったという念いを、私たちは代々受け継いでいると思うんですね。断念の深さを、断念の深淵を。一日にどのくらいの念いがわたしたちの胸に浮き沈みしていることでしょうか。日々、底に沈んでいく念いがあります。口に出せるのは泡のひとつぶでございます。人はみな、そういう念いを抱いて死んでいくのではないでしょうか。
私たちはなぜ未来を夢見るのか。そんなふうに深く深く沈められているものたちが、未来を夢見たがるのではないでしょうか」
私はこの講演を1995年6月5日に、神奈川大学で聴いた。
もう一つ、石牟礼さんの「護符」と題した谷川雁追悼文より。
「『ものがたり交響』の中で『鹿踊りのはじまり』を解説して、空海の「声字実相」の根本義にふれ、雁さんは「世界は無音の言葉に満ち、不可視の文字に満ちている。これを“真言”とよぶ」と書かれた。生きておられれば抱えてゆき度かった相談の中に、水俣からの無音の言葉を一本桔梗の青にして、海の水脈に似た不可視の文字を漉きこんだ紙にくるんで、持ってゆきたかった」