音楽を聴くわたしは、不死のわたしである

レヴィ・ストロース神話論理1』序曲より。


神話的思考は思いきって出発しようとしているのではなく、到達しようとしているのでもないので、行程全体を全うすることがない。神話的思考にはいつまでたってもまだ成し遂げねばならないことが残っている。儀礼と同じように、神話は果てしなく続くのである。


ある住民たちの神話の総体は、おしゃべりのレベルにある。その住民たちが身体的あるいは精神的に絶滅しないかぎり、完成することはない。


わたしは、ひとびとが神話の中でどのように考えているかを示そうとするものではない。示したいのは、神話が、ひとびとの中で、ひとびとの知らないところで、どのようにみずからを考えているかである。そしてたぶん、すでに示唆してあるが、さらに踏み込んで、主体というものを取り除いて、ある意味では、神話たちはお互いに考え合っている、と想定すべきであろう。


音楽も神話も時間を必要とするのは、あたかも時間を否認するためでしかないような具合である。どちらも時間排除装置である。音とリズムのもとで、聞き手の生理学的時間という、人手の加わっていない場で音楽は作用している。生理学的時間が不可逆であるため、徹底的に通時的であるが、音楽はその一定部分を変質させ、共時的で閉じた全体として聴取すべくしている。音楽作品は、その内的組織ゆえに、過ぎゆく時間を停止させている。音楽は時間を、風に吹きあげられるテーブルクロスのように、捕まえ折り返す。だからわたしは音楽を聴いていると、そして聴いているあいだ、いわば不死の状態にある。  このように音楽は神話に似ている。