書くこと、生きること、愛すること〜石原吉郎から〜

私は虚無へ引きかえす 帰るべき故郷を持つもののように

耐えるとは、<なにかあるもの>に耐えることではない。<なにもないこと>に耐えることだ。

体験とは、一度耐えきって終るものではない。くりかえし耐え直さなければならないものだ。

理解しあい、手をにぎりあうことだけが連帯なのではない。にくみあい、ころしあうこともまた連帯である。決定的なかかわりあいであることにおいて、私はそのあいだに、どのような相違も見いだすことはできない。

<みずからに禁じた一行>とは、告発の一行である。その一行を切りおとすことによって、私は詩の一行を獲得した。その一行を切りおとすことによって、私の詩はつねに断定に終ることになった。いわば告発の一歩手前へふみとどまることによって、断定を獲得したのである。

私は告発しない。ただ自分の<位置>に立つ。

まず連帯とは、<すでに失われたもの>であるという認識から出発しなければならない。そして、失われたものの回復は、一人の人間から始まり、一人の人間で終る。

一人の思想は、一人の幅で迎え入れらることを欲する。不特定多数への語りかけは、すでに思想ではない。

ひとが共同でささえあう思想、ひとりの肩でついにささえきれぬ思想、そして一人がついに脱落しても、なにごともなくささえつづけられて行く思想、おおよそそのような思想が私に、なんのかかわりがあるか。

ちからづよい孤独の意識、世界が荒廃した直後に、しっかりと一人で立てる思想、私が求めるのはまさにそれだ。

一人の人間を献身的に愛することができるなら私は生きうるであろう。