考える

熊本に行ってきた。『東アジア文化論』という、まあ、なんでも話すことのできるタイトルの集中講義を、5日間、一日4コマ、駆け抜けてきた。その一日、学生たちを連れてハンセン病療養所、菊池恵楓園に志村康さんを訪ねた。菊地野という社会から隔絶された荒野で、生き抜くための哲学を切り開いてきたこの孤独な哲人との対話をとおして、学生たちに生きるための「知」というものの存在に気づいてほしいと思った。

その翌日に、今度は夜、恵楓園を訪ねた。来年のハンセン病市民学会総会・交流集会に向けての話し合いのために集まった運営委員の方々に交じって、囲いの中の生の経験を、囲いの中にとどめぬための知恵を絞った。どこまでいっても、「かわいそうな被害者」を救済するという枠組みの中でしかハンセン病問題が語られない現状をどう乗り越えるか、それが真剣に語り合われていた。
(もちろん、救済は必要だ、でも、それは恩恵として上から与えられるようなものであってはならない…)

ハンセン病問題の乗り越えとは、近代の乗り越えなのだ、近代という世界観のなかに囲い込まれた人間が抱え込まざるをえない普遍的問題のひとつの現れなのだ、それを出発点に、表層に現れた個別の問題を、その根っこまで掘り下げて、いかに普遍の問題として囲いの外と内で分かち合うのか。そういう困難な問いがそこにはあった。


管啓次郎の『狼が連れだって走る月』を読んだ。
「旅の可能性を考えない定住者に現実を変える力がないのとおなじく、定住の意味を知らない放浪者は頽廃に沈むだけだ。この町で、これからしばらく、ぼくは旅と土地の論理を考えてみようとおもう」
うん、私も、しばらく、ここで、旅と土地の論理を考えてみよう。