希望の国  陳腐を陳腐で切り返す。

園子温希望の国』を観てきた。 http://www.kibounokuni.jp/
公式ホームページから、ストーリー引用。

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舞台は東日本大震災から数年後の20XX年、日本、長島県。酪農を営む小野泰彦は、妻・智恵子と息子・洋一、その妻・いずみと満ち足りた日々を送っていた。あの日が来るまでは。長島県東方沖を襲ったマグニチュード8.3の地震と、それに続く原発事故は、人々の生活をたちまち一変させる。原発から半径20キロ圏内が警戒区域に指定される中、強制的に家を追われる隣の鈴木家と、道路ひとつ隔てただけで避難区域外となる小野家。だが、泰彦はかつてこの国で起きた未曾有の事態を忘れていなかった。国家はあてにならないと言い、自主的に洋一夫婦を避難させ、自らはそこに留まる泰彦。一方、妊娠がわかったいずみは、子を守りたい一心から、放射能への恐怖を募らせていく。
「これは見えない戦争なの。弾もミサイルも見えないけど、そこいらじゅう飛び交ってるの、見えない弾が!」
 その頃、避難所で暮らす鈴木家の息子・ミツルと恋人のヨーコは、消息のつかめないヨーコの家族を探して、瓦礫に埋もれた海沿いの町を一歩一歩と歩き続けていた。
やがて、原発は制御不能に陥り、最悪の事態を招いてしまう。泰彦の家が避難区域となり、強制退避を命じられる日も刻一刻と迫ってきた。帰るべき場所を失い、放射能におびえる人々。終わりなき絶望と不安の先に、果たして希望の未来はあるのだろうか?

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何とも評し難い映画。愛にしか逃げ場のない、つまり、信じることのできる人(=守るべき人)とひたすらそこに向かって逃げていく「希望の国」。おそらくたどりつけない「希望の国」。共に逃げる(共に死ぬ、も含む)ということがなにより意味深い、そういう意味での希望への逃避行。
あえてストレートに陳腐に徹した戯画化が、表現としてアリかどうか、ぎりぎりのところ。確信犯であえて芸達者な役者たちにオーバーな大根演技をさせる(ように感じさせるほどのべタな演出)、陳腐な言葉を吐かせる、わかりやすい比喩をしつこいほどにリフレインする……etc。それが効果的かどうかなどという些末なことを思ううちに、だんだんとこのような表現をあえて選択したことの意味合いのほうを、より深く考えている自分に気が付く。

まっとうなことをまっすぐに言ったり、したり、書いたり、表現したりするほどに、周囲から浮いてしまったり、疎外されたり、笑われたり、バカにされたり、敬して遠ざけられたり、妙に尊敬されたりして、何かと生きづらくなるこの国、この社会のことを、ふっと思った。

人間は追い詰められて、必死になればなるほど、言葉も行動もシンプルに、まっすぐになってゆく。技巧をこらすほどの余裕もない究極の状況。そこで吐き出される必死の言葉、選び取られた決死の行動。それを安全圏から眺めているなら、それはもう、いわゆる陳腐な言葉と行動のオンパレードになるだろう。

命を懸けた陳腐と、自分の何物も賭けることのない刷り込まれた条件反射的な表現としての陳腐と。

陳腐を陳腐で切り返す試みとしての表現、ということを思った。