器になる

『琵琶法師』(兵頭裕巳 岩波新書)の第3章「語り手とはだれか」。

琵琶法師の語りは、「我」という視点を持たない。

琵琶法師は異形の者である。境界上の存在である。
琵琶法師は女の法号を名のり女官をおもわせる官職を私称した。法師形でありつつ、袴をはいた俗体だった。
異形の王子神とその母神が琵琶法師の祀る神であり、そこには父なる神(規範、掟)はいない。
自己同一的な主体形成の契機となる父なる神(他者)が不在である。

「そこに形成されるのは、自己同一性の不在において、あらゆる述語的な規定を受け入れつつ変身する(憑依する/憑依される)主体である。みずからの帰属すべき中心をもたない主体は、ことば以前のモノ、この世ならざるをモノをうけいれる容器となるだろう」

「異界のモノのざわめきに声をあたえるシャーマニックな主体は、ことばが分離・発生するそのはざまを生きる者として、本質的に両性具有である。ことば以前のモノのざわめきから、ことばが立ち上がる機制は、比喩的にいえば変成男子である。その両性具有的な主体こそ、非ロゴスの狂気のざわめきに声をあたえ、言語化・分節化されないモノから語りのことばが出現する現場(まさに「変成男子」である)を、その発生のはざまにおいてとらえるモノ語りの語り手である」


こうして読んできて思うのは、
「語り」という現象を、理屈のことばで解き明かすのは、いかにもご苦労なことだ、ということではあるのだけど、書かれていることには、私も頭で納得できる。
でも、体はなかなかこうはいかない。意識してカラッポの主体になるなどということは、ひどく滑稽なことのようであり、おのずとカラッポの主体になるというのは、どこか悟りを開くというようなことにも似ていて、頭でつくづく考えるに、至難の業。

脈絡なく、カフカ『変身』の冒頭を想い起こす。

「ある朝、グレゴール・ザムザがなにかおだやかならぬ夢からさめたとき、ベッドのなかで自分が1匹のとてつもない虫けらに変身しているのを発見した」

なんの脈絡もない。ただ、私も、ある朝夢からさめたとき、ベッドのなかで自分が1個のとてつもないカラッポに変身しているのを発見したいと思っただけのこと。