草津のハンセン病療養所栗生楽泉園に行ってきた。詩人谺雄二さんと歌人金夏日さんを訪ねて。
園に着いたら、必ずまっすぐに納骨堂に行き、手を合わせる。草津は、行くたびに雪。納骨堂の向かって右手は、地獄谷。
ここには、巡礼の心持で、やってくる。
谺雄二さんが、一家の中で最初にハンセン病を発病した自身の母親をめぐって、こんな話をした。
「母は、巡礼が来ると必ず我が家にあげて、風呂に入れてやり、ご飯を食べさせていた。きっと、あの巡礼のなかにハンセン病の人間がいたのだろう。母の一族の中でハンセン病にかかったのは母だけだった。でも、母はそうやって巡礼をもてなしたことを、けっして後悔してはいなかった」。谺さんのお母さんは、10人目の子である谺さんを生んだ直後、体が弱り切っていた時に発病した。
楽泉園には、失明した方々のための盲導鈴が辻々に立っている。
人が通ると童謡が流れ出す。
音楽だけでなく、俳句や短歌が掲示されている。
園内の温泉「藤の湯」の脇には村越化石さんの句。
「除夜の湯に 肌触れあへり 生くるべし」
湯がしみる。句がしみる。
「同じ陽を 浴びて胡瓜の へそ曲がり」
藤田峰石
この句は、なんだか身につまされる。微苦笑。
「風上の彼方はるけき越の山 眼裏に清く銀嶺は顕つ」
この句は、谺雄二さんの今は亡き盟友澤田五郎さんの句。澤田さんは失明していた。澤田五郎さんには、こんな歌も。
「帰り得ぬ故郷と知ればなお熱く赤城へなだれゆく銀河を抱く」
「眼裏にまざまざと顕つ或る時は苦しきまでの冬夜の星座」
給食棟前。
「久々に点字の手紙読み終えて 舌先に少しほてりを覚ゆ」 金夏日
金夏日さんにはほかにこんな歌も。
「無窮花とはいかなる花か朝鮮の国花と聞けばわれは知りたし」
「響きよき美しい母国語あるゆえに母国語習い母国語話さん」
金夏日さんが初めて詠んだ歌はこれ
「ひたぶるに眼科に通い癒えざれし視力にて仰ぐ桜は白し」
もう視力が回復することはないと知らされた直後、ぼんやりとうっすらと白くだけ見える世界にある哀しみを歌った。
旧小学校跡。→
「別離の夜 父は榾焚き 母は茶を」
未感染児童と呼ばれた子どもがハンセン病を発病した両親と引き離される、
そのときの記憶を詠った句だろうか。
巡礼は歌を導きの声に、見えない国に分け入ってゆく。