レヴィナス

人間は壊れものなのである。
世界はそもそも壊れているのである。
まずはこれが大前提。

レヴィナスは言う。
「他の人の無駄な苦しみに対して感じる苦しみ、正当化しがたい他者の苦しみに対して感じる私の正当な苦しみは、苦しみについて対人関係に関する倫理的な展望を開く。(…)たとえ容赦無いものであっても誰か他の人の苦しみゆえの苦しみとなることが、苦しみが受け入れ可能になる唯一の方法なのである」

誰かの不条理で無意味な苦しみを、私が身代わりのように苦しむとき、苦しみは無意味から意味へと反転する。これをレヴィナスは「倫理」と呼ぶ。

私達人間の生の倫理。
他者の生存と苦しみに対してつねにすでにあらゆる責任を負い、他者が私に対して犯した罪の責任をも私が代わりに負ってしまうような、そういうものとしての倫理。

つまり、これは、あくまでも可能性としてしか存在しない、実現不可能な倫理。

なのに、私は他者の苦しみをすべて背負っていると、仮に私が言うならば、そこには一種狂気が孕まれている。

私が「私」であるための、倫理と狂気。無意味を意味へと反転する永遠なる可能性。
その可能性を信じること。この「信」こそが人間の最後の砦であるということ。

ここを出発点に、レヴィナスが説く壊れものとしての人間と破壊された世界とそこから立ち上がってくる<語りえないこと>を語るということを考える。

予定調和を越えて、無意味を意味へと繰り返し反転させていく営みとしての<生>と、そのような<生>の継承としての歴史を考える。