狼鑑札

『私のための芸能野史』(小沢昭一 新潮文庫)を読んで、ふっと<狼鑑札>のことを思い出した。

<狼鑑札>というのは、帝政ロシアの時代に、法によって、どこか一箇所に落ち着くことを認められず、道もなく目的もなく果てもなく、死ぬまで歩きつづける義務を負わされた人々のこと。
その言葉を聞き知ってから、目に見えぬ<狼鑑札>が、自分の首にもかかっていやしないかと、時折思う。

明治から戦前まで、歌舞伎俳優も芸者も、<遊芸稼人>という鑑札を持たねばならなかった。
小沢昭一は、遊、芸、稼がバランスよく調和しているのが、「きっといい芸人なんだナ」「クロウトっていうのは、みんなそうなんではないだろうか」と言う。「近頃は“放浪”ばやりである。しかし、“放浪”の、キビシサ、ツラサ、セツナサばかりが強調され、カッコイイこととされているような気がする。ホンモノの放浪は365日明けても暮れてもだ。セツナサ、ツラサばかりでは身がもたない。案外当人は「遊」なのであろう。ほら、遊行という言葉もあるではないか」と書く。

そうだ、遊行だ、遊行。


浪花節では滑稽のことをケレンと言うんだそうだ。笑わせ芸。
大真面目な浪曲が忠孝、愛国をがんがん唸っていた戦前戦中の頃、笑わせ芸は寄席で細々と……。
浪曲もそういう時代を経てきたのだという。

浪花節は、説教や彩文の流れをうけて浮かれ節から浪花節ですが、私はもう一つの阿呆陀羅経、チョボクレの流れが、ケレンにつながっていると思うんです。説教・祭文脈は、まァ、シリアスとでもいいますか。マジメな方。阿呆陀羅経・チョボクレの脈は、滑稽。ところが、説教・祭文脈の方ばっかりが増長して、固定してしまった。そこに浪花節の悲劇があると思うんです」
「ですからネ、説教・祭文の系脈が、コケオドカシで威圧的で、大時代に客を呪術にかけるのも、考えてみれば、由緒正しいやり方のようにも思われます。ただそれは、もう今の時代に、向かない」

小沢昭一が書いたのが、昭和47年。1972年。あ、沖縄本土復帰の年か……。

あれから、40年近くが流れて、世はコケオドカシ系、大時代的な呪術の全盛。いや、浪曲の話ではなく、世の中一般のこと。

ケレン、遊行、狼鑑札。笑って、笑わせて、うれしがって、楽しんで、死ぬまで険しい道を歩きつづける喜びを持つ者でありたいなと、ふっと思う。