黄泉帰る

『巫と芸能者たちのアジア』(野村伸一 中公新書)を読んでいる。
読むうちに、しきりに、済州島で見た神房(いわゆるムーダン)の「クッ」を思い出す。
神房が開くこの世とあの世を結ぶ道、死者の声、その日その時その瞬間だけ神房によって語られて消えてゆく死者の一族の物語。物語られることで鎮められる魂。

「巫女の唱える<巫歌>においては理不尽に死んだむすめたちがさまざまなかたちで現れる。そしてまた、パンソリの古典『沈清歌』はそうした文脈から育まれたものである。沈清は盲目の父親のために、わずかのカネで身を売り、死を目前にした。パンソリとはそうした者たちの済度と密接にかかわって成長してきた謡芸である」(『巫と芸能者たちのアジア』より)

パンソリのなかの沈清、春香、日本の説教節の主人公たる安寿、照手とを、野村伸一は同じく<巫歌>の中の女として語りつつ、日本の場合は、侍の因果応報的文化の中に矮小化されていったと言う。<巫歌>の歌われる本来の場、死霊済度の場とはかなり縁遠くなったと。

そして、こう書く。

「巫歌の女たちは死ぬ女であると同時に、笑う女でもあった。これは庶民にとって実はまったく当たり前のことであった。いかし、わたしたちの国日本では民俗の場においてすら、今更ながら「猥雑でない庶民があるか」と問い返さなければならない。そう、矯められすぎた民俗文化の黄泉帰りのためにも」

そうなんだよね、随分と矯められちゃってる。民俗文化以前に、生きている人間そのものが、ここ日本では。人間自体が黄泉帰らなくちゃいけないだろうな、とページをめくりつつ、切に思う、深夜。