旅する対話 広島編 番外

4月14日(日)は、広島文化台風とチェチェン連絡協議会の共催で、「旅する対話」広島編。
チェチェン人の映像作家ザーラ・イマーエワと私の日本での対話の旅もこの日が最後。
会を仕切ってくださった東琢磨さん、温かく迎え入れてくださった広島の皆さんのおかげで、とてもいい会になった。

広島のみなさん、ありがとう!

リラックスしたザーラは対話の会のさなかに、カメラを取り出し、撮影。私も撮影返し。

4月15日、ザーラは映像プロデューサー岡田一男さんとともに京都に向かい、私は広島に残り、平和記念公園をひとりゆく。
旧軍港、大本営跡とまわるつもりだったのだが、平和祈念資料館と平和記念公園だけで精神的にノックアウト状態になり、あとは平和
記念公園からほど近い袋町小学校の資料館を訪ねるのが精一杯。

袋町小学校被爆当時の西校舎の一部を残して、そのまま資料館にしている。当時、校内や校舎地下にいて奇跡的に助かった教員と生徒3名を除いては、袋町小学校はほぼ全滅。校舎は被爆直後から救護所となり、校舎の壁は伝言板となって、多くの人々が安否確認や行方不明者捜索のための伝言をチョークで記していたという。
その壁を天皇が視察にくるからということで、漆喰で塗りつぶしてしまって、人々の記憶から消えかかっていたものが、後に再発見されて、その一部が、今、当時の写真とともに展示されている。

ここは写真撮影不可。自分の心にのみその光景を刻んだ。

平和記念公園内はモニュメントがそこかしこに。これは8月6日に必ず映像で目にする原爆死没者慰霊碑

「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」

誰が、どんな 過ちを 繰り返さぬよう 死者たちに誓うのか。
私は 彼らに なにを どう 誓うのか

問い。


原爆供養塔の前にぼんやり佇んでいたら、マスクで顔をおおった小柄なおばあさんに声をかけられた。
「どちらからいらしたの?」「横浜から」「それは遠いところから、ありがとう。ここは遂に引き取り手のなかった無縁の遺骨が祀られているところなんです。あっちの慰霊碑はお参りする人も多いけれど、こちらはね。私は公園に来たら、いつも必ずここで手を合わせます」

そう話すおばあさんの顔を覗き込んだら、顔じゅうに赤黒いあざがあって、ハッと息を飲んだら、「あっ、このあざはね、転んで顔を打ったの。変な病気じゃないから安心して」と言われてしまう。おばあさん、おいくつ?と歳を聞いたら、「私はもうすぐ80歳。10歳のときに被爆しました。戦争だけは本当にダメ。絶対にダメ」。


そして、供養塔の向かいの敷地にある慰霊碑を指さして、
「あれは外国の人たちの慰霊碑。長い間、公園の外に置かれていたのが、ようやく中に移されてね。あれが作られた時、『地球人』という言葉を言ったのよね。日本人でもなく、外国人でもなく。『地球人』、いい言葉だわ。ねっ、あれもお参りしてあげて。」と。

もちろん、私はなにより、その慰霊碑を探しに来たのです。

そう心の中で呟いて、大きな声で、「ありがとう、おばあさん!」 



おばあさんが指さして教えてくれた慰霊碑はこれ。

「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」とある。
民団系の人々が中心となって建立したようである。
この人々が亡くなったときには、南も北もなかっただろうにと思いつつ、
やるせない心持で慰霊碑を見上げる。




 「動員学徒慰霊碑」












「動員学徒悼歌」








そして、レリーフ



















さてさて、刻まれた祖国という言葉に、物思う、午後。
動員学徒は、「祖国に殉じた」、か……。

動員学徒の死者は、日本全国で1万余人、原爆死は6千余人。






原爆ドームは年々小さくなるのだそうだ。
広島の町が年々大きく高くなってきたのだそうだ。







原爆ドームを町側から見ると、正面に野太く「慰霊」と刻まれた石碑。目に焼き付く。