昭和の肖像<芸>

小沢昭一『写真集 昭和の肖像<芸>』をしみじみと読む。
どの風景もどの人もページを繰るほどにますます懐かしい。
昭和とは、この世から姿を消したモノたちへの郷愁の代名詞なのだろうか。
その郷愁すらもあとかたもなく消えゆく時代に私たちは生きているのだろうか。
かつて、風のように村や街にやってきて、家々の門に立ったり、街角や広場に人を集めて芸を見せたりする者たちがいた。
「訪れる芸」。「訪れる芸能者」たち。道の上に生きる者たち。彼らは訪れる神仏の代理人であったのだと小沢昭一は語り伝える。
近代の光に照らされて、人々の心から見えない世界への畏れや闇への敬意が消えたとき、訪れる芸からカミもホトケも姿を消して、それは単なる芸能、単なる娯楽となったのだという。
それはそれでよかろう、でも、どこかつまらない、どこかうすっぺらなのはなぜなのかと言えば、小沢昭一曰く、「やっぱり芸というのは肉体をいためて成り立つんですね。人間の肉体にとって不自然なことをやって、それがその人にとって自然になった時に、芸は独り立ちできるというもの」「ぼくの求めている芸能ってのは要するに、人間が食うために仕方なしにがんばって、歯を食いしばって身につけた超人的な腕前」「便利で清潔な文化と命ギリギリ芸とは反比例する」。
そう、命ギリギリの見世物芸で、祝って、説いて、話して、語って、さらして、見せて、さすらって、命懸けだから神も宿る仏も宿る、エロもグロも媚も情もある。
 そこで、話はストリップについてとなる。
 昭和も末の一九八一年、道の上の芸能はほとんど生ける屍となっていた頃に、小沢昭一はストリップこそが現代に生きる放浪芸なのだと気がついたのだという。世間から白眼視されながらも、生きるために、全国津々浦々の小屋から小屋へと365日、法の網をかいくぐり新たなワイセツの領域を切り拓く、現代の放浪芸。ストリップ。
 小沢昭一が二大実力スターと大いに肩入れした一条さゆりと桐かおる。このふたりの芸を見てみたかった。消えゆく道の文化に遅れて生まれて間に合わなかった私は、ひどく悔しい。こうして語り伝えられたものをただ懐かしむだけではなお悔しい。
 生の音、生の声で、瞽女唄も聞きたかった、肥後琵琶も聞きたかった、門付けの芸を見たかった。道の彼方からやってくる荒ぶる芸能の神、世界を書きかえる芸の力に触れてみたかった。
 とはいえ、懐古、郷愁ばかりでは情けない。そう思うならば、今の時代の、新たな道の文化をこの世に呼び覚ますべく、道なき道へと漂いでるべし。
 飄々と、命ギリギリ、旅にでよう。