『移動と離脱 バタイユ・ブランショ・デュラス』西谷修 1997年 せりか書房。
ふっと手にとって読んでみれば、あの頃の懐かしい匂い。なかなかに面白い。というか、たぶん、1997年に読んだならわからなかったであろうことが、水が染み入るように、わかる。これは肌でわかるということ。
語られているのは、「書く」ということ。
「無為」としての、「書く」。
「外」へと身を開くこととしての、「書く」。
あらゆる既存の共同体から、権力から、同一化の力から、統合から、全体化から離脱する運動としての「書く」。
彷徨、流浪を原理とする「共同性なき共同体」、「無為の共同体」へと向かう行為としての「書く」。
そして、西谷修は「書く人」デュラスについて、こう語る。
もう一人の「異邦人」がいる。インドシナで生まれ育ったマルグリット・デュラスである。彼女はもっと果敢だ。「外」は自由である。そこは人びとが名ももたず、無防備に膚を接し合う無権力の王国である。人は個人ではもはやなく、主体でもなくそれ自身「贈与」ですらある。この自由は恐怖させる。この自由の無防備は無限の受動性と区別されない。しかし出なければいけない、快活でなければいけない。「恐怖と権力は直結しているから」、そういってデュラスは、恐怖させるまでに無垢で快活な幸福感にあふれる「外」への誘いを投げかける、「破壊しに!」と彼女は言う。
では彼女はいつから<書く人>デュラスとなったのか。もちろん「一八歳」のときからだ。というより、作品の主人公たちが口をそろえて言うように、<書く>ときにはいつも「私は一八歳」なのだ。(中略)ヨーロッパを遠く離れたアジアの植民地インドシナ(ベトナム)に生まれた彼女が、故郷を去って初めてフランスの地を踏んだのが一八歳のときだった。
と、ここまで書いたところで、出発の時間。
私はこれから、一個の異邦人となって、パリに向かう。