ときどき私は中也になる。

汚れちまった悲しみに、汚れちまった悲しみに、と繰り返し呟く夜もあるのです。

汚れっちまった悲しみは なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは 懈怠のうちに死を夢む

汚れっちまった悲しみに いたいたしくも怖気づき
汚れっちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる……


「汚れちまった」にアクセントがあるのか、「悲しみ」にアクセントがあるのか、
それもその日の気分で変わるもので、
いずれにしても、なにか、だれかに、甘えていることは間違いない。

『汚れちまった悲しみに』の変奏曲、『わが半生』
これもまた甘い詩。
けっして座しては死なぬ者の、甘い夢。

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『わが半生』  中原中也
(『在りし日の歌』より)

私は随分苦労して来た。
それがどうした苦労であったか、
語ろうなぞとはつゆさえ思わぬ。
またその苦労が果たして価値の
あったものかなかったものか、
そんなことなぞ考えてもみぬ。

とにかく私は苦労して来た。
苦労して来たことであった!
そして、今、此処、机の前の、
自分を見出すばっかりだ。
じっと手を出し眺めるほどの
ことしか私は出来ないのだ。

外では今宵、木の葉がそよぐ。
はるかな気持ちの、春の今宵だ。
そして私は、静かに死ぬる、
坐ったまんまで、死んでゆくのだ。