元禄九(1696)年五月二十三日の弘前藩庁「国日記」によれば、

「南部では、人が入用なら津軽の三庄太夫に頼めばよいと言われている」。

イタコが語ったお岩木様の神・安寿が姫の物語『お岩木様一代記』の生成を考えるにあたって、どうやら、この元禄九年という数字は、かなり重要な年のようである。

「国日記」に記された「三庄太夫」という言葉は、寛永期(1624〜44)に上方で活況を呈した古説経「さんせう太夫」から来ているもので、この時既に「人買い」の代名詞として使われている。
となれば、「お岩木様一代記」の安寿が姫の物語が、「さんせう太夫」の説話圏内で、「さんせう太夫」を取り込みつつ成立したことは特に不思議はない。
それどころか、津軽のイタコが「さんせう太夫」の構成要素を自由自在に使いこなして、「さんせう太夫」とは本質的に異なる物語を織り上げたというふうにも言える、
と、これは『安寿 お岩木様一代記奇譚』(坂口昌明著)の見解。

『安寿 お岩木様一代記奇譚』において、坂口昌明いわく、
説経節「さんせう太夫」は、武家的思考をベースにした幸若舞に近い貴種流離譚であり復讐譚。安寿の奉仕と自己犠牲を前提とした物語である。
「一方、『お岩木様一代記』が説くのは、王朝的虚構の枠組みを踏襲する男性本位の秩序から疎外されたうえ、あらゆる絆まで奪いとられた孤立者の心の呼びかけにだけ、はじめて示現する『聖なる力』への帰依についてなのである」。

さて、元禄九年であるが、
この前年の八月から元禄九年八月までの飢渇(元禄飢饉)による弘前藩領内・津軽一円の餓死者は二〇万人にも及んだと伝えられている。(最近の研究で、実際には三万人程度だったと推定されている)。

翌元禄十年 
元禄飢饉からの復興の精神的拠り所の一つとして、「岩木山権現様の御母御前」が祭神とする「サカタマの明神」が亀ケ岡に建立された。
(つまり、<お岩木様=安寿が姫>の母親が祀られた)。
また、弘前禰宜町東田には山王権現の御堂が建てられ津塩丸が鎮座した。
(『山椒太夫』でいうところの「厨子王丸」が祀られた)
ここには、明らかに、お岩木様(=安寿が姫)を中心とする土俗の神々と「さんせう太夫」が習合した『お岩木様一代記」の世界観が反映されている。

飢饉の死者を鎮魂する亀ケ岡のサカタマの明神の祭礼では、イタコにより「お岩木様一代記」が唱導されたことだろう。
(これはつまり、男性原理の説経節が換骨奪胎されて、山の神信仰と習合した物語が語られたということ)。
古説教「さんせう太夫」(寛文版)もまた、祭礼の賑わいの中で、上方からやってきた説経語りによって語られたことだろう。

面白いのは、「さんせう太夫」寛文版は、越後瞽女がタネ本に使った形跡があるということ。
瞽女たちは直江津〜福島・磐城を、越後街道で往来し、実際の「さんせう太夫」の物語の道をつないでいたようでもある。
寛文よりも百年ほど前の天明の大飢饉の直後の寛政年間においては、この越後街道をたどって、越後・越中・加賀のほうより一向宗門徒が相馬へと移入してきている。(真宗移民)。
越後街道を行き交う人々がつないだもの、運んだものがある。
瞽女の動きは、海の道をたどって、直江津津軽にも連なってくる(かもしれない)。
イタコ・座頭の声とも行き交うのかもしれない。

ここで津軽には加賀・越中・越前からの移民も多くいたことを思い合せる。北前船の航路でやってくる海をわたっての移民。
(お岩木様一代記の安寿が姫の母親は加賀の生まれというのである。安寿が姫は板船で丹後由良まで行くのである)。

盲の世界、声の世界は、音の響きで連なっていく。
目の見えぬ者たちによる旅する語り。その目には見えない道のつらなりを想う。

元禄飢饉の後、『お岩木様一代記』が成立した頃、また説経節「さんせう太夫」が人口に膾炙していた頃、津軽では藩営で養蚕業の育成に力を注ぐようになる。
養蚕業を支える存在として女性が大いに働くことととなる。そこにオシラ祭文流布の背景もあるという。『お岩木様一代記』にしろ、「オシラ祭文」にしろ、イタコがその担い手であり、女たちがその支え手。
目の見えぬイタコが語りだす物語とその世界観が津軽の庶民の暮らしのなかにしみとおり、信仰めいたものとなったり、癒しとなったり、支えとなったりしていた時代が確かにあったのだろう。それもおそらく昭和のある時期、近代が目に見えぬものを封殺していくようになるまで。

山椒太夫、お岩木様一代記の津軽での浸透は、津軽における強烈な丹後人忌避、丹後嫌い、丹後タブーの根拠となるのだけれど、(山椒太夫は丹後由良の人だから)、それはむしろ政治経済の見地から政策的に煽られたものというのが坂口昌明の推理。
津軽における丹後嫌いは、津軽の養蚕業の阻害要因となる丹後の絹綿の流入を妨げるためのものだったのだと。
なるほど、なるほど。