『続さんせう太夫考』(岩崎武夫 平凡社選書)

を読んでいる。

著者岩崎武夫によれば、前作『さんせう太夫考』が説経の背景にある「聖」なるものを追求したものならば、これは「俗」なるものの側からのアプローチで、説経を読みなおそうという試み。
物語とともに生きる人間たちに寄り添ったこのアプローチはきわめて大切なものに思われる。
テキストを追うだけではつかみとれない生々しい人間の営みのなかの物語がそこには浮かび上がるから。

説経「さんせう太夫」、能「婆相天」、高田瞽女の祭文松坂「山椒太夫」、イタコの「お岩木様一代記」、丹後由良の「山庄略記」、森鴎外山椒大夫』……。

森鴎外のおかげで、安寿と厨子王の物語として世に知られてきた説経節「さんせう太夫」が、その物語が語り起こされた時代、土地、語り手の素性、その語りを聞く聞き手の素性によって、どれだけの変容を遂げてきたのか。

能が「庭」の芸能であり、説経や瞽女の祭文松坂が「道」の芸能であるならば、語りにはおのずと「庭」には「庭」の、「道」には「道」のありようが映し出される。

同じ盲女の語りでも、旅する瞽女と、津軽の土俗のなかのイタコでは、おのずと語る風景も変わってくる。

丹後由良の者が語リ伝える「山庄太夫」と通り過ぎてゆく旅人の語る「さんせう太夫」もまたおのずと異なる。

<語り手>×<聞き手>×<土地の記憶>によって開かれる「場」によって、いかに「さんせう太夫」という物語がのまれたり、噛み砕かれたり、再生されたりしてきたのか。そもそも説経節「さんせう太夫」それ自体が、その「場」、その「場」で、何度でも生みなおされ、語りなおされる生き物のような物語でもある。

さまざまにおのずと異なる語られようをする「さんせう太夫」という物語、その物語の器としての力、もしくは、物語られる力とでも言うべきものを、あらためて考える。

文字に起こされて固定された物語からそぎ落とされている、声で語られた物語の揺らぎ、揺らぎのなかに息づく物語を物語たらしめる、「語りの力」「物語の命」とでもいうべきものに思いを馳せる。

<土地の記憶>という点で、『続さんせう太夫考』を読んでいて面白かったのは、安寿と厨子王一行が人買いに買われる「直江津」という土地をめぐる話。
直江津という境界性を孕む「土地」の性格、その記憶に引き寄せられて生まれる語りがあるのだ。

直江津は中世の七湊(越前・三国、加賀・本吉、能登・輪島、越中・岩瀬、越後・直江津、出羽・秋田、津軽・十三湊)の一つ。海陸交通の要所だった。
海路においては、直江津が東国船、西国船というときの、この東西のつなぎ目であり境界の場所であったという。、
陸路においても、「義経記」に、「越後国直江津北陸道の中途にて候へば、それより此方にては羽黒山山伏の熊野へ参り下向するとぞ申すべき、それより彼方にては熊野山伏の羽黒に参ると申すべきと申しければ……」とある。これは弁慶の言葉。直江津を軸に羽黒山伏、熊野山伏と分かれる東西の境の観念がこの言葉の前提となる。
そもそも古代において、、対蝦夷の要塞として、あるいは奥羽開拓の要地としての越後があり、国府の置かれていた直江津はその中心であり、本邦と蝦夷の二つの世界の接点でもあった。

だから、直江津で人買いに買われた安寿と厨子王と御台と姥竹が、丹後に向かう船と、蝦夷に向かう船、二つの船に分かたれて乗せられていくことも、実にリアルなお話になる。

直江津を軸に東国西国の人買い船が東西に分れて航行するという伝承なしにはこの悲劇は構想されなかったであろうし、それは直江津北陸道の中間に位置し、海陸の要所としての歴史を維持してきたことと無関係ではない」

さらに著者の境界性をめぐる論議は、直江津のなかの「おうぎの橋」へと及んでいく。境界としての橋。この橋の下を安寿・厨子王一行は仮寝の宿として、人買いの手に落ちてゆくこととなる。

おうぎの橋から海辺は近い。
そういえば、直江津の海辺と言えば、京から流されてきた親鸞の上陸地居多ヶ浜がある。
この直江津の地には、山椒太夫伝説のみならず、多くの親鸞伝説もある。
浜からまっすぐに登って行った居多神社にも親鸞伝説は残る。

数年前に親鸞を追って居多神社を訪れたことがある。
居多神社は大己貴命を主神に奴奈川姫命・事代主命を祀っているのだが、古くは媼嶽(おうなだけ)明神 または居多明神といったのだという。
媼嶽、つまり姥竹。この媼嶽明神を「さんせう太夫」の産物のように岩崎武夫は語るけれど、さて、どう考えたらいいものか……。

想い起こしてみれば、そもそもが、この神社もまた実に面白い虚構と伝説と物語の咲きわう聖空間で、不思議な場所だった。