11月1日
朝5時過ぎに家を出て、新潟をめざした。船は9時過ぎに出航。雨模様。風景が潤んでいる。岸壁を離れる船の上をかもめが舞う。
(でも、かもめに見送られて……、などというのどかなものではなく、デッキから投げ与えられるお菓子を彼らは群れなして旋回して狙っている)。
佐渡に上陸したなら、めざすは新穂歴史資料館。
ここには佐渡の広栄座の説経人形、のろま人形、文弥人形の頭が展示されている。
佐渡の各地の郷土博物館、資料館のなかでは、人形関係はもっとも充実。
但し、撮影は基本的に禁止なので、ここには説明のパネルのみアップ。
新穂歴史資料館の人形たちはまだ現役で、ときどき公演の旅に出る。彼らは生きているからと、展示用のガラスの部屋の中にはお茶とおせんべいが置かれている。ぐるり彼らに取り囲まれる人形たちの展示スペースにいると、押し殺した息づかいが空気をかすかに震わしているようでもある。こっそりと覗き見るようなまなざしの部屋。
新穂から金井のときわ館へと向かった。ここは人形遣いの浜田守太郎さんの薫陶を受けた新潟交通の元バスガイドさんをはじめとする女性たちが立ち上げた「常盤座」の拠点。ときわ館には、ときわ食堂。赤魚の煮つけの定食。食べながら座長とあれこれ人形四方山話。座長は「山椒太夫」では安寿と厨子王の母の人形の遣う。物語の中で佐渡にやっとのことでたどりついた安寿をあやまって盲目の母が打ち殺す。その場面になると、いつも涙が出るのだと、座長。ここは食べるのと話すのとで忙しくて、写真を撮り忘れ。
佐渡博物館にまわって、いろいろと安寿情報を下さった山口さんにご挨拶して、11月1日の旅程は終了。宿は真野。
翌11月2日は、朝から相川をめざす。佐渡奉行所前で心強い道先案内人柳平則子さんと待ち合わせ。
そして相川郷土博物館に。郷土博物館のすぐ前には佐渡金山の遺構。
郷土博物館には、安寿伝説に登場する昔の道が記された古地図があり、それを柳平さんは安寿伝説探訪の前に私に見せてくれた。
そして、今にも雨が落ちてきそうななかを出発。もうひとりの古道の案内人が待つ北片辺へ。
桐の木坂、隠れ坂、四十二曲がり等々、安寿伝説の険しい道。
安寿伝説の道は、今では地図にもない、土地の人の記憶からも消えようとしている道。
それはかつて明治以降に海沿いの道が開かれる前の暮らしの道もあった。
隣り村に行くには、船を使うのでなければ、細い山道を鼻を地面にこすりつけるようにして登ってゆく山越えの道。
田畑は段丘の上にあるから、田に行くことを「山に行く」と言い、農作業の道具やらいろいろ背負って、日々山道を登り降りしたとも言う。
↓は、桐の木坂。と言いつつ、通わなくなって久しい道はもう跡形もない。目に映るのは見上げるばかりの丘。
桐の木坂の下は、桐の木沢。降りることもできない断崖。
かつて、大きく屋根のように岩が張りだしていたこの海岸沿いの道を、
高田から自衛隊が道路整備の工事のためにやってきたのだという。
ダイナマイトで岩を砕く、そのときに誤爆して沢の下まで三人の自衛隊が吹き飛ばされて亡くなったと古道案内人。
海岸沿いのこの道には殉職の碑が立つ。そうやって拓かれたこの道も、やがて新たにできた海岸道路の陰の道となっている。
古道案内人のあとをついて、今は使われぬ「山に行く」道をゆく。
山から村への降り口のところには大師堂がかつてはあったが、新しい道ができて人通りが絶えると、大師堂は場所を移された。今は石垣のみが大師堂の名残。この石垣の石はきれいに切り取られてはめ込まれていて、石工たちの腕前をしのばせる。金山のための石切場、石工たちの存在を想う。
さあ、鹿野浦。
今は人も住まないこの浦は、かつては田があったのだとも、塩焼の浜だったとも言うのだけれど、中の川を流れた毒のためにこの地に生きてはいけなくなったのだとある伝説は伝える。その毒は安寿が流した涙だったのだともいう。母が流した涙だったという声もある。
また別の伝説は、安寿とその母を苛め抜いた人買い佐渡の二郎は天罰で身が亡び、二郎の土地だったこのあたりは草木も生えぬ荒れ地になったのだとも。鹿野浦の鹿野大夫は佐渡二郎の手下だったという人もあり。伝説は歴史となって現実に忍び込んでいるようでもある。ここを発掘調査した折に、土器に入った大量の朱が発見されたという記録がある。
安寿塚。
十数年前の台風19号でかつての祠は吹き飛ばされ、朱の色も目に鮮やかなあたらしい祠。ここは古地図には十二権現とある。土地の人も、安寿伝説を語りながらも、十二権現であることも同時に知っている。十二権現はむじなか、あるいはこの土地の昔からの自然神。
古道案内人が指さしているのは、これもまた跡形もなくなった四十二曲がりの山道。大変な難所と言われた昔の陸路。
四十二曲がりを降りてきたところの、今の海岸道路の脇の駐車場に、安寿と厨子王の碑。
揮毫したのは小堀杏奴。
鹿野浦からトンネル抜けて相川方面に行くその途中の集落、
達者。
ここにも安寿伝説。
村の入り口には清水があり、人々は昔よりその水を祀り、目洗い地蔵が祀られ、水は大師信仰と結びつき、安寿伝説と結びつき、達者の歴史の水脈となり…。
佐渡・相川。山椒太夫の人形たち。
この子たちは他の文弥人形に比べて大きい。
より大きなホールなどでの上演に対応するための工夫の一つなのだという。
11月3日、朝早くより、山深い猿八を目指す。
ここには人形浄瑠璃猿八座の主宰者 西橋健さんが暮らす。
2時間余り、人形、文弥、浄瑠璃、古浄瑠璃をめぐる四方山話。
来年四月には、昨年の四月の「山椒太夫」@越後高田・世界館につづいて、
今度は厨子王に焦点を当てた「山椒太夫」続編をふたたび高田・世界館で上演の予定という。
そして、これは西橋さんが彫った頭。
このなんだかそっけない感じの美女は、この夏に舞台に立った時、実に美しかったと西橋さんの奥様のはるみ美さん。
人形は舞台にあがると顔が変わる。人に見られるほどに、遣われるほどに、いい顔になる、と西橋さん。
ここは夏には盛大に、安寿天神祭をやるという。畑野の人々も、この塚が山椒大夫の安寿の塚ではないことを知っている、けれども、ここは確かに安寿の塚でもある。
安寿は虚実を越え、物語を越え、伝説を越え、この世に遍在している。