生命の記憶

生命の記憶、とは、知性からは「みえない記憶」、生命それ自身が持っている記憶、と内山節。

「それは生きているということ自体がもたらした記憶といってもよいし、生命の躍動や生命の停滞とともに蓄積された時間の記憶でもある」。
「この生命の記憶を概念的に語るのはむずかしい。なぜなら生命それ自体が語りうるものではないからである。語りうるものならそれは知性の領域に属するのであり、生命は知性からは「みえないもの」でありつづける。したがってもしそれを語ろうとするならば、何かに仮託して語るしかないのである」

これは、『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書 内山節)に書かれていること。

内山節曰く、1965年を境に日本人はキツネに騙されなくなったのだという。
いうならば、キツネに騙される歴史と、キツネに騙されない歴史があるのだという。
キツネに騙される歴史とは、「みえないもの」を何かに仮託して語る、仮託してこそはじめて見える「生命性」の歴史、なのだという。


「「神のかたち」は仮託された代表的なものであろう。村人ともにある「神」は、つきつめれば姿かたちがないばかりでなく、教養もない。なぜなら神の本体は自然と自然に還ったご先祖様であり、その本質は「おのずから」だからである。「おのずから」のままにありつづけることが神なのである。だから人々は神が展開する世界に生命が流れる世界をみた。生命を仮託したのが神なのではなく、「おのずから」の生命の流れが神の展開なのである。だから人間も「おのずから」に還ることができれば神になれる」

「ときに神は山の神、田の神などになって「かたち」をみせる。とともにそれらの神々は「神の物語」という「かたち」で伝えられる。さらに神を下ろし、祀る儀式である祭りという「かたち」をつくることによって神を体感する。ときに山に入って修行をするという「かたち」に身を置くことによって神をみいだす。こうして神はさまざまなものに仮託され、そこに生命の世界を重ね合わせながら、人々は生命性の歴史を諒解してきたのではなかっただろうか」

「生命的世界を仮託したのは「神のかたち」だけではなかった。なぜならもっと日常的な、いわば里の生命の世界もまた存在したからである。この里の生命の世界と神としての生命の世界が重なり合うかたちで仮託されたものとして、村の人々の通過儀礼や里の儀式、作法などがあったのだと思う。それらは一面では神事というかたちをもち、他面では日々の営みとともにあった」

「そして、最後に、日々の里の生命の世界のあり様を仮託していくものとして、人々はさまざまな物語を生みだしていた。この村がうまれたときの物語。我が家、我が一族がこの地で暮らすようになった物語。さらには亡くなったおじいさんやおばあさんの物語」

「生命性の歴史が感じとられ、納得され、諒解されていた時代に、人々はキツネにだまされていたのではないか」
「だからそれはキツネにだまされたという物語である。しかしそれは創作された話ではない。自然と人間の生命の歴史のなかでみいだされていたものが語られた」

と語る内山節は、最後に一言、こう言う。
「それは生命性の歴史を衰弱させた私たちには、もはやみえなくなった歴史である」

延々と内山節の語ったことを書き写した。
というのも、ここには、なぜ私が「語り物」に惹かれるのか、そしてなぜ「人形芝居」に惹かれるのか、その理由の一端が語られているようにも感じるから。

もはや見えなくなったなにか、言葉にならないなにか、生命の記憶としか言いようのない何かへと、声をたよりに、人形たちをたよりに、還ってゆこうとしてるかのようでもある。

還るとは生まれなおすことでもある。