日向の勾当、景清

田代慶一郎謡曲を読む』(朝日選書)を読む。
取り上げられているのは、「熊野」「景清」「蝉丸」。
まずは「景清」から。


平家の武将悪七兵衛景清は、平家滅亡の後、日向の国に流され、そこで晩年を送ったという伝承がある。それが幸若舞にもなり、謡曲の背景にもなる。。
さらに、日向の国で景清は琵琶法師となって、源平合戦の軍語りを始めたという伝承もある。これは、平家語りを職業とする盲法師の間に伝えられたもの。謡曲「景清」で、景清がみずからを日向の勾当というのは、その伝承を踏まえている。
(勾当とは、盲人組織である「当道」の検校・勾当・別当・座頭の四官十六階のひとつ。でも、これは室町初期に成立したとみられているから、鎌倉初期が舞台の「景清」で、景清が勾当というのは本来ありえない話ではある)。


「日本には景清を元祖とする盲人の一群があって、久しく色々の民間説話を管理し、又之を町田舎に配達して居たらしい(・・・・・・)。彼等は平家物語や三代田村といふ類の長い戦記を表芸とはして居たが、その合間には珍らしい多くの昔話を覚えて居て、面白く之を語り、又時々少しづつ改作を試みて、聴く人の機嫌を取結ぶことを職業にして居た」(柳田国男

「夜に入りて平家を聴く。薫一曰く、悪七兵衛カゲキヨ、平家一代武家合戦の様、尽くして之を記す。平大納言トキタダ、文官歌詠等の事、皆之を記す」(『臥雲日件録』)と、文明二年(一四七〇年)の記事に平家物語の合戦部分を景清が作ったという伝承まで記録されているという。


謡曲では景清失明の事情は一切触れられていない。すでに盲僧の平家語りとなった景清がそこにいるだけ。

景清はなぜ盲となったのか? なぜみずから両眼をえぐったのか?


平家が滅んだ後の源氏の天下で、清盛の遺言に従い頼朝の命を狙い、平家一門の恨みを晴らす。
このけっして成就するこのない果てしない復讐を生きる景清の焦燥と妄執の日々、(景清は三十七度復讐に失敗したとは舞曲「景清」にある。それはまるでシジフォスの神話のようでもある。)、この妄執を断ち切るために、妄執をうながしてやまぬ現実をわれとわが目から遠ざけるために、現実を拒否するために、景清は自ら盲目となる、と田代慶一郎氏。

「君(頼朝)を見申さんたびごとに、あれこそ主君の敵ぞと、あっぱれ一と刀うらみ申さでと、思ふ所存は露ちりほども失せまじ」(舞曲「景清」)

盲となって日向に生きる景清は、見えない眼で何を見るのか?
(これもまた、オイディプスの問いのようでもある)。


謡曲の中の、盲の闇に生きる景清、日向の勾当は、
「その上わが名は、この国の、日向とは 日に向かふ、日向とは 日に向かふ」と言い、
「目こそ 暗けれど、目こそ 暗けれども、人の思はく 一言の内に 知るものを」と言い、
「さすがにわれも平家なり。物語始めて、おん慰みを申さん」と言う。


盲目の琵琶法師、平家語りとなった日向の景清は、繰り返し、みずからが生きた物語を語ることとなる。

日向の勾当、平家語り、盲の闇の中の景清が物語るたびに、闇の底から光が湧きいづるようでもある。

「日向とは、日に向かふ」、
その「日」というのは、心の内の奥底から登ってくるようでもある。


「物語る」たびに語り手は生きかわり死にかわることとなる。
「物語る」ことの秘密を語り手景清は生きることになる。


そして、おそらく、
日に向かふ語り手の、「物語る」ことの秘密を分かち合う聞き手(読み手)もまた、
物語る声を身に受けるたびに、生きかわり、死にかわる、


物語るとは、日に向かふ・・・。