中西和久ひとり芝居『山椒大夫考』

友人の中西和久さんのひとり芝居「山椒大夫考」公演が、
5月に川崎である。これはすごく面白い。
16年前に博多の住吉神社能楽殿で初めて観て、すっかりやられた。

5月公演の詳細は以下のとおり。
2015年5月4日(月・祝)14:00開演
会場:川崎市アートセンターアルテリオ小劇場
主催:川崎・しんゆり芸術祭2015実行委員会
問合せ:044-952-5024 ( チケットセンター044-952-3100)...



以下は、私が、16年前に書いた『山椒大夫考』の感想。
1998年11月28日朝日新聞掲載。(京楽座HPより転載)

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ひとり芝居「山椒大夫考」を福岡の住吉神社能楽殿で見た。幼いころに読んだ「安寿と厨子王」の物語とは色合いも奥行きも深みも異にする物語世界への旅へと連れ出され、その旅の余韻がなかなか去らない。
私の知る「安寿と厨子王」は、明治の文豪森鴎外の「山椒大夫」を底本にした児童書だ。鴎外は説経節「さんせう太夫」を底本に書いた。
演者中西和久は鴎外の「山椒大夫」を参照し、さらに旅の芸人たちが語り伝えた説経節瞽女唄(ごぜうた)の世界へと分け入って歌いかきくどき、登場人物のひとりひとりを我が身に降ろして演じてゆく。
私には伝統芸能の素養も良しあしを聞き分ける耳もないが、笛、太鼓、琵琶、三味線から打ち出される音と語りと所作が一体となって形作られる空間に脈打つリズムが心地よかった。それだけに、読み上げられる鴎外の書き言葉の文体とリズム、それが描き出す近代的に改変された物語がある種の違和感をともなってせり出してくる。「さんせう太夫」と「山椒大夫」の間にある日本語の世界の裂け目、とでも言おうか。その裂け目をのぞき込めば、近代へとジャンプするときに日本語の使い手たちがぼろぼろと落としたもの、捨てたものが見えるようでもある。
私たち、ずいぶん長いこと「声」をなくしていたんじゃないか。かつて、辻(つじ)や門口で語り手と名もなき聞き手たちの交感のなかではぐくまれていった「声」があったことを思い出した時、ふとそう思った。汗みずくで演じる現代の説経語り中西和久に、私たちの「生」に根差した「声」の不在に改めて気づかされたのだった。