かつて、新潟は新発田の瞽女内田シンは、こう言った。
「はやりぶしは、おらもっていがねば誰ももっていがね。そって、おらがはやらがしたものだ」。
その瞽女唄への説経節の影響については種々の論考があり、一橋論叢一九九九年三月号では、秋谷治氏が『説経さい文小栗判官・照手の姫』をめぐって「民衆文化の伝播と変容」と題して書いている。
その結論をざっくりと書いてみれば、
まず、
薩摩若太夫正本『説経さい文小栗判官・照手の姫』は、1863年の段階で、東北の語り物として、語り直されて根付いている。
(この東北の語り物としての「小栗」は本田安次が『語り物』という本に「奥羽の語り物」として収めている)。
秋谷氏いわく
「説経祭文が東北地方に迄伝播しそのまま正本のままにおとなしく伝来されたものではない。それの崩れたものとみるべきでもなく逆に自分のものとした咀嚼力の逞しさを見るべきであり、民衆の間に根づいた語り物として焼き直された例証といえるであろう」
「説経祭文の語りを二百年に亘りよく保存してきた関東周辺の説経節も庶民の中に根づいているといえるが、優るとも劣らない民衆文化の伝播と変容の姿である」
くわえて、秋谷氏は、薩摩若太夫正本が直接に影響を与えたと思われる歌謡二つに触れている。
まず一つは、一ツトセ節「おぐりはん官一代記 上(下) 一ツトセ」
これは、かつての北埼玉郡騎西町(現在の加須のあたり)で刷られて発行されている。
(この町には五代目薩摩若太夫の高弟の日暮龍卜が幕末より明治にかけて帰郷して近隣に多くの門弟を擁していたという)。
一ツトセ
おぐりのはんがんまさきよの
七ツトセ
てるてをのせたるうつろぶね
十トセ
八十よにんのじょろしゅより
十九トセ
くせものよこやまてるもとを
この四つの部分には、明らかに薩摩若太夫正本との対応があるのだという。
さらにもう一つ。岐阜県大垣市で歌われてきた「松坂音頭」の一つである「小栗判官正清」。
この大垣の歌謡が「松坂音頭」というのは、瞽女唄が「祭文松坂」と称していることにも通じて、要注意。
また、説経節の語り手のもとには、正本や写本がよく残されているもので、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館所蔵の薩摩若太夫正本『説経さい文小栗判官・照手の姫』には、「越後/車屋/青柳」という黒印がところどころに捺されていて、それによって江戸期一般の書物のように貸本屋(!)を通して読まれていた経緯がわかるのだそうだ。
「山椒太夫」を追う旅においても、
瞽女唄「山椒太夫 舟別れの段」の背後にも流れる説経祭文の語りの声に耳をよ〜く澄ますこと!