6月15日より八王子市民となりました。

つい最近まで、横浜で生まれ育った私にとっては、八王子ははるか彼方の遠い土地だったのだが、なぜだかさまざまな因縁が重なって、気がつけば八王子近辺で家を探し始め、あれよあれよという間に八王子駅徒歩圏内の丘の上に新居を構えることに。


八王子は桑の都。
桑のあるところ、養蚕の盛んな地では、祭文、瞽女唄、旅の語りの声のさきわう。
そもそも日本に養蚕の技術をもたらした渡来人秦氏秦河勝は猿楽の祖、死しては荒神となり境の神となった。
境の神は芸能の神、この世に新たな息吹を吹き込む神。
(死せる秦河勝は、説経『小栗判官』の照手姫がうつぼ舟に閉じ込められて川に流されたように、やはりうつぼ舟で川に流され、浜に流れつき、荒神となった)。


八王子は薩摩派祭文の十代目薩摩若太夫の出身地。この人ゆえに、八王子が説経祭文の本拠地となったという。
八王子でどれほど説経祭文が流行ったかと言えば、かつては祭文の一つも歌えなければ男じゃないと言われたのだと。


八王子は説経節小栗判官』の横山一族の本拠地だったところ。
歴史上の横山一族は鎌倉時代和田義盛に加勢して、北条氏に滅ぼされた。


関東大震災のときには、八王子へと芸人たちが浅草から避難してきた。その置き土産が多摩の地芝居。
その関東大震災の置き土産を平成の世に復活させようとする試みをきっかけに生まれでたのが、十三代薩摩若太夫
そして、その十三代目が3・11をきっかけに佐渡の文弥節とつながるのである。その詳細はいずれどこかで。
(私は佐渡の文弥節「山椒太夫」を訪ねていって、佐渡の山奥の猿八まで登っていったその末に、ぐるりと一巡りして八王子にたどりついた)。


『八王子』という地名は、牛頭天王スサノオに関わる八王子権現から。
(延喜年間に、神仏習合両部神道によって、牛頭天王と八人の子を祀ったという。それゆえに八王子。
神仏分離の際、仏教の要素である牛頭天王は分離されて、素戔嗚尊にとその御子神八体が祀られることとなった)


わが新居に一番近い土地の神、八坂社もまた素戔嗚尊を祀っている。「東京都神社名鑑」によれば、「創建の年代は不詳である。室町時代に七日市場の中心に八坂明神を奉斎して、疫病の神としてあがめたのである。(七日市場の鎮守として、また北野の郷内さらには近郷より「天王様」「御神輿様」として崇められてきた)」。


放浪する神、荒ぶる神たちの気配を感じて暮らす八王子の日々、ここには、飼いならされる以前の、野生の芸の気配がある。
あらためて、ここから、「語り」と「声」の道のはじまり、はじまり。