阿国と佐渡

出雲の阿国が一六〇三年に京都に姿を現わす前に、佐渡ヶ島に下向していたという説がある。(慶長見聞録案紙)。

一五九〇年代末に既に京都で名を知られていた阿国の、一六〇三年までの数年間の空白は、佐渡のような場所への地方巡業ゆえのことと考えると大いに納得できるのだと林屋辰三郎。


「当時諸地方の大名領国では、その富強策として鉱山開発の気運がいちじるしく高まってきた。そのうちにも『就中佐渡島はただ金ぎんをもつてつきたる寶の山』といわれて、たちまち草木も靡くとうたわれるほどに人口を集中させ、一島さながらに鉱山都市のような景況を呈したのである。このような土地での娯楽としては、きわめて強烈な刺激をもつものがよろこばれた。そこではたしかに『異風なる男のまね」をする女性や、『茶屋の女と戯むる』ような状景が、喝采をもってむかえられたのであろう」


「京都で阿国一座が多大の好評を博すると、たちまちに模倣者が輩出してきた。そのなかに六條の傾城町より佐渡ヶ島正吉と名乗る遊女の一座が四條河原で興行して、佐渡ヶ島歌舞伎とよばれたということも、この鉱山都市との深いゆかりを感じせしめるものであろう。その舞台は脇もつれも地うたいも、みな遊女であったから、芝居はたちまち傾城町の延長のごときものとなった」


こんな記述の中からも、江戸初期の佐渡ヶ島が見えてくるよう。