『佐渡 伝承と風土』(磯部欣也 創元社)より。

佐渡・鹿野浦の「安寿塚」をめぐって。その歴史的背景を探るならば……。


鹿野裏に「安寿と厨子王」の安寿が祀られているとすれば、安寿は佐渡に生きて渡ってきたということが前提になる。数ある「山椒太夫」の物語の中で、安寿が生きて佐渡に渡ってきて、佐渡で死んだと語るのは、文弥節の「山椒太夫」のみ。
それを前提として、以下の記述がある。


佐渡には説経浄瑠璃とともに、文弥節も語られていた。めくらの座語りとしてである。「泣き節」といわれるほど、節も、三味線の音色も、しみこんでくるような哀調がある。文弥節は、説経節にとって代わる、新式の浄瑠璃であった。寛文から延宝のころ、大阪で岡本文弥が語りだしたものだという。文弥の師匠の山本土佐掾は、説経の物語だった「さんせう太夫」を、文弥の台本にとり入れた。この物語は、文弥を通じて、当然佐渡へ伝わってくる」

注) 
寛文(1661〜1672) 延宝(1673〜1681) 岡本文弥(1633〜1694) 
文弥節:古浄瑠璃の流派の一。延宝(1673〜1681)のころ、大坂の岡本文弥が創始。哀調を帯びた旋律が特徴で、泣き節といわれて人気を博したが、宝永年間(1704〜1711)には衰滅。
山本角太夫本とされている『山椒太夫』は、元禄15年(1702)
渡部八太夫ブログ参照


「文弥節が佐渡へ入ってくるのは、享保期前後といわれる。文弥節とは別に、説経浄瑠璃人形も、享保年間には、佐渡へもたらされた。けれども、この二つの移入が、そのまま鹿野浦の地に、この物語を定着させる時期と一致するとは限らない。とくに説経浄瑠璃は、金平系の、勇壮な合戦物を多く語ることで、島のひとびとのもとめに応えていたとみられる」


佐渡風土記』(寛延3年 1750)、『佐渡四民風俗』(宝暦6年 1756)に、鹿野浦と『山椒太夫』にまつわる記述登場。

注)しかし、この二書にその名が記されている「佐渡の次郎」は、説経本に則ったもので、つまり、安寿は由良で責め殺されている。一方、文弥節では、安寿は生きて佐渡にやってくる。
確かなのは、文政年間(1818〜1830)においても、佐渡では、説経本のほうの「山椒太夫」に関わる伝承が語られていたということ。

いったい、安寿は、いつから、生きて佐渡に渡ったと、佐渡で語られるようになったのか?


『島根のすさみ』(川路聖謨 天保11年 1840)には、「四十二曲の辺に、三荘太夫が旧跡ありき、さだかなることはしらず」とある。


江戸時代を通じて、佐渡の鹿野浦における『山椒太夫』をめぐる伝承は一貫して、佐渡の次郎という人買い(もしくは長者)にまつわる話として語られていたようだ。


「おもしろいことに、鹿野浦に残る安寿塚は、もとは「十二権現」のやしろであることがわかった。文化十四年(一八一七)の北片辺村の村絵図を開いてみると、この塚が「十二権現」と記載されてある。十二権現とは、熊野山伏の祈祷所なのである」