菅江真澄の旅

天明5年(1785)秋。旧暦の8月。津軽の外ヶ浜あたりを菅江真澄は旅をする。
それは天明の大飢饉のさなかのことで、鰺ヶ沢の港から内陸へと進み、床前の野原に差し掛かると、そこには餓死者の白骨がうず高くつまれていた。


旧暦8月15日の日記。

笛、つづみがなりどよめいて、さんげさんげと大ぜいの声でとなえ、通り過ぎてゆくのは、この月のはじめからきょうを最後として、岩木山に詣でのぼる優婆塞(在家の山伏)たちであった。「この御山のはじめて開けたのは、延暦のころである」と人が語った。「その昔、岩城の司判官正氏が子供をふたり持っておられ、安寿姫、津志王丸とよばれていた。その霊をこの峰に祀っている。そのような物語があるために、丹後の国の人は、この岩木山に登ることができない。またこの峰を見渡すことができる海上に、その国の舟がいると、海はひじょうに荒れ狂って、ぶじに港に停泊することもむつかしい」と、船頭がいった。