「山椒太夫」の物語を追って、福島へと旅したのは昨年10月のこと。
福島市内の弁天山には安寿・厨子王とその父と母の居城があったという「椿館(つばきだて)」があり、そこからは福島市内が一望のもとに見渡せる。この弁天山から「信夫細道」という古道が福島盆地を囲む山々の尾根伝いに延びている。安寿と厨子王はこの古道を歩いたのだという言い伝えもある。そして信夫細道のすぐ脇に立つ「大蔵寺」で旅の無事を祈ったのだとも。
この「大蔵寺」、大同2年(807)の開基で、会津の僧・徳一によるといわれる。徳一は空海より陸奥への真言宗布教への協力を要請されたのだという。
この寺に祀られている千手観音は、弘仁10年(819)に、征夷大将軍坂上田村麻呂が陸奥の鎮護のために僧行基に彫らせたものとも言われている。
そして、観音堂奥の院の天井には、「清水寺縁起絵巻」によく似た絵が描かれているというのだが、2011年の震災で観音堂は封鎖されていて観ることはできなかった。
この天井絵は、田村麻呂が蝦夷(えみし)の悪路王と戦う場面であり、戦う蝦夷たちは角が生えた鬼として描かれているという。
そう、蝦夷は鬼、なのだ。
悪路王は坂上田村麻呂に敗れ、岩手・平泉の達谷の窟(たっこくのいわや)に毘沙門天により封じられた。
福島の田村にも達谷の窟はある。そこは漢字は同じでも、読みは「たやのくつ」。田村の「達谷の窟」は、「鬼穴」とも呼ばれ、ここも激戦地だったという。
郡山市史によれば、
「大滝根山の早稲川(田村市)にある、達谷窟または鬼穴という洞窟にはエミシの首魁・悪路王大武丸(大多鬼丸とも)がいて、田村麻呂と死闘をおこなったという伝承があります。史実としては田村麻呂その人ではなく大和の東征軍との戦いだったのかも知れませんが、大滝根山のすぐ南東の山は鬼ヶ城山(八八七、三メートル)といい、また大滝根山周辺には鬼五郎など鬼の地名が多いことから、その戦いは死闘・激闘であったことが想像できます。また大和は、手強いエミシの抵抗があった地に鬼の地名をつける傾向が顕著です」
なるほどね。
福島県田村市の「田村」は坂上田村麻呂にちなんだもの。その田村市には、蝦夷たちの記憶を宿す「鬼」つく地名が残る。
古浄瑠璃正本集(二)に収められている「田村」(和泉太夫正本)では、「日本を覆さんが為 数千の眷属、引き具し」伊勢の鈴鹿山に天下った大竹丸をと、坂上田村麻呂の死闘が繰り広げられる。
大竹丸。つまり、蝦夷の悪路王大竹丸が、異形異類の眷属の長としてここに登場する。
そして、ここでは蝦夷ではなく、鬼人と呼ばれる。
その姿といえば、「面の色は極めて白く、髪は猩々の血にてもみ朱を染めたる如くにて、牙は銀の鉾を植え並べたるに等しく、蜀江の直垂、玉の冠、悪業煩悩の玉座」になおる。
大竹丸は、人の心の高慢を見透かして、その濁りにつけこみ、人を滅ぼす。
「田村」に描かれる、田村麻呂に並ぶと言われた武将惟憲の、高慢ゆえの滅んでいく姿はまことに恐ろしい。
武将惟憲はその高慢の心に鬼を引き寄せてしまい、高慢ゆえの田村麻呂への妬み嫉みの心を鬼どもに煽られ、ついに鬼形(きぎょう)となり、それはつまり「鬼」に身を取られたゆえのことであり、武将の身を乗っ取った鬼が虚空に消えたあとには、武将はただ肉塊としてそこに残される。
「柳は緑、花は紅、おのおのが色に染む。仏は人を助くれば、鬼は人を餌食とす、人間は菩薩をもって食す」「愚かなり、愚かなり、人の国へ、理不尽に乱れ入り、悪逆をなす……」
と大竹丸に叫ぶ田村麻呂に、大竹丸が返して言うことには、、
「人の国とは、心得ず、日本は我々が国なるに」
なのに、天照る神が大竹丸らとの誓約を破り、この国に仏法を盛んに広めたがゆえに、
「国を召し返さん」としておのれの臣下である眷属を都に遣わしたのだと。
もちろん、大竹丸は田村麻呂に打ち破られる。
田村麻呂が大竹丸と戦うにあたり、蒙古と戦った百合若大臣が諏訪大明神の御正体を写し奉った御旗を掲げる。
(なるほど、こうして古浄瑠璃の世界で、異族との戦いという共通項で、田村麻呂と百合若は結ばれるのか…。新潟の新発田の宝積院に残る、蝦夷征伐をするはずのない百合若の蝦夷征伐伝説もこれで腑に落ちる。)
そして、なにより、ヤマトによる陸奥の蝦夷の征伐の記憶が、こうして古浄瑠璃のなかに形を変えて留められていることに、あらためて気づかされる。
謡曲「田村」は、田村麻呂と清水寺千手観音との関わりを語るが、なるほど、だから、福島の大蔵寺に田村麻呂が千手観音を祀ったという伝説も生まれるのであり、観音堂の天井絵も蝦夷征伐の絵となるのだろう。