「小栗判官 照手 車引きの段」の道。その1 さかさまの出発。蝉丸神社。

照手姫は、売られた先の美濃・青墓の遊女の宿の主から、懇願の末に五日間の暇をもらい、
青墓宿から大津・関寺まで、亡き夫の供養のためにと、
えいさらえい、一引き引きては千僧供養、二引き引いては万僧供養、
体の腐れ果てた餓鬼阿弥の乗る土車を引いてゆく、
実はその餓鬼阿弥こそが、
閻魔大王の思し召しで地獄からよみがえり、
藤沢の遊行寺の上人によって土車に乗せられた照手の夫・小栗判官その人だということを照手は知らず、
ただただ深き縁のお導きで、無数の無縁の衆生のひとりとなって車を引く、
餓鬼阿弥の土車は、無縁の衆生の手に引かれ、
熊野の壺湯へと、蘇生の道を運ばれてゆく、
照手は青墓から関寺まで三日間、一心不乱に土車を引いて、
なぜか深い哀しみとともに関寺から青墓まで二日間で帰ってゆく。

その道を、そのあたりに関寺があったという、逢坂の蝉丸神社界隈から、青墓に向けて旅立った。


朝から雨。
旅立ちの雨は恵みの雨というけれど。



出発は、逢坂・蝉丸神社。
蝉丸神社前の旧道には、うなぎ屋のかねよが大きく店を構えていて、
雨の中、たれをつけてうなぎを焼く匂いが漂ってくる。
腹にしみる世俗の匂い。


さて、蝉丸と言えば、延喜帝の第四皇子で、盲目ゆえに京と近江の境界の逢坂山に捨てられた。
謡曲「蝉丸」にこうある。

「皇子はあとにただ独り、琵琶を抱き杖を持ち、伏し転びてぞ泣き給う。伏し転びてぞ泣き給う。」
蝉丸には、生まれつき逆髪(さかがみ)で、それゆえに狂女となって諸国をさまよう姉がいた。

謡曲「蝉丸」にはこうある。

「邊土遠境の狂人となって、緑の髪は空さまに生ひ上って撫づれども下らず

「いかにあれなる童共は、何を笑ふぞ。なに我が髪の逆様なるが、をかしいとや。げに逆様なる事は、をかしいよな

「さては我が髪よりも、汝等が身にて我を笑ふこそ逆様なれ

「面白し面白し。これ等は皆人間目前の、境界なり。それ花の種は地に埋って千林の、梢に上り、

 月乃影は天に懸って萬水の底に沈む。これ等をばみな何れか順と見、逆なりとは言はん

「我は皇子なれども、庶人に下り、髪は身上より生ひ上って星霜を戴く。これみな順逆の二つなりおもしろや      


盲目の琵琶弾きの弟と、逆髪の漂泊の狂女の姉と。
逢坂山で出会って、別れる、逆髪はふたたび辺土のいづくかへと彷徨いでる。


放浪の説経語りたちは蝉丸を祖と仰ぎ、彼らに旅の身分保障の免許を与えたのが蝉丸神社という。語り物・音曲の元締め。


その蝉丸神社から、さまよえる逆髪の心持ちで、照手の歩いた説経の道を歩き出す。

逆髪の心持ちとは、辺土遠境の狂人の心持ちでもある。歌い語って道ゆく者どもの心持ちでもある。



こちらは関蝉丸神社下社。
音曲芸道祖神とある。


関の蝉丸神社と蝉丸神社を総称して「蝉丸神社」とするらしい。
関の蝉丸神社はそもそもは関の神(=賽の神、坂の神、境界の神、道祖神等々)を祀った郷社で、その「境界性」はおのずと芸能とは深く関わるものだろう。
そこに蝉丸が後に合祀されたということらしい。

猿田彦と蝉丸。道の神、音曲の神。


関蝉丸神社は、線路の向こう、踏切を渡ってゆく。




関の清水。
水に宿る神もある。
境内に貴船神社。奉納の提灯に、「森進一、大原麗子」とあった。


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夢野久作ドグラ・マグラ』「キチガイ地獄外道祭文」より。

▼あ――ア。両手合わせる千万無量じゃ。古い伝えは延喜の昔に。あのや蝉丸、逆髪様が。何の因果か二人も揃うて。盲人と狂女のあられぬ姿じゃ。父の御門に棄てられ給い。花の都をあとはるばると。知らぬ憂目に逢坂山の。お物語りは勿体もったいないが。斯様な浮世のせつない慣わし。切羽詰まった秘密の処分は。古今東西いずくを問わない。金の有る無し身分の上下。是非と道理を問わないものだよ……チャカポコチャカポコ……