『サンパウロのサウダージ』  メモ

レヴィ・ストロース。序文より。

「語源にしたがえば、<ノスタルジア>とは過ぎ去ったものや遠い昔への感情である。一方、<サウダージ>や<あわれ>はいまこの一瞬の経験を表象しているように思われる。感覚によるか、あるいが想起によるか、いずれにせよ、そこでは人やモノや場所の存在が、それらのはかなさ、一過性についての激しい感情に侵された意識によって完全に占領されている」


「私が近著のタイトルで、ブラジルにたいして(そしてサンパウロにたいして)<サウダージ>という表現を採用したのは、もうそこに自分がいないのだという悲しみによるものではなかった。(中略)むしろ私は、ある特定の場所を回想したり再訪したりしたときに、この世に永続的なものなどなにひとつなく、頼ることのできる不変の拠り所も存在しないのだ、という明白な事実によって私たちの意識が貫かれたときに感じる、あの締めつけられるような心の痛みを喚起しようとしたのだった」


「ブラジルこそ私たちの人生のなかで偉大な日々であった」

そして、
「ブラジルでしか私は写真愛好家ではなかった」(『ブラジルへの郷愁』序文より)


今福龍太いわく、
サンパウロに着いたとき、なによりもまず彼を驚かせたのはその都市の新しさではなく、時のもたらす荒廃の訪れの速やかさであった」

「移ろいやすい若さ」


ふたたび今福龍太いわく
「「時間というものに無頓着な町」と彼は書いているが、逆にいえば、そこには過ぎ去るものを愛で、失われるものを悼み、別離をいとおしむ感情が、異なった時間的産物として、あるいは無時間の地平に置かれた瞬時の感情のはたらきとして存在している。ということでもあった。私は、たえず「いま」という時の瞬間的な充満と喪失に配慮するこの特異なブラジル的悲嘆のあり方を「サウダージ」という翻訳不可能な深い感情複合体の核心に感じとった」


「レヴィには、データという考えがない。固有の場所という考えもない。想念だけがあり現実すらない。『悲しき熱帯』には、自分が何処に何時いたか、という空間や時間についての具体的な意味づけは一つもない。それは調査行の成果ではない。それじたい、神話的時間の属している本だ」
(調査行の同行者、カストロ・ファリアの言葉)


神話的時間、無時間の場、そこに宿るサウダージ
「記憶の断片から忘却が築き上げた深い構築」によって新たな視覚を得る必須条件としての「無時間の場」


忘却の深い創造の力は、無時間の場を媒介に、「時の地峡」を伸ばしてくる。
重層化された時の秘法へと旅人を招き寄せる。



<問い> 
なぜ、人はブラジルで写真を撮るのか?
なぜ、ブラジルでしか、写真を撮らないのか?


これは、『サンパウロサウダージ』に「時の地峡をわたって」という一文を寄せた今福龍太の、はじまりの問い。