胸に刺さっている言葉ひとつ。

「だって、あなた、社会派じゃない、社会問題を追いかけてるじゃない。あたしはそうじゃないから」

昨年末のことでしたが、長い付き合いのある人にさらりとこう言われたときに、どうしようもない違和感と悲しみが瞬時に心に湧きおこったのでした。


これにかぎらず、社会派だの、社会問題だの、昔からよく言われることです。そう言われるたびに感じてきた違和感。その生まれくるところは、思うに、その言葉が、断ち切る言葉として差し出されているから。


「あなたが語っているそれは社会問題であって、私の問題ではない」と。

あるいは、その言葉は形を変えて、こういうふうにも差し出される。
「悪いけど、そういう政治的なことに関わりたくないんだよね」


私は、「社会問題」としてひとくくりに一般化されるような問題などないと思っています。
一方で、この社会に生きる私たちひとりひとりが抱える問題から、政治を脱色することなど到底できないとも思っています。


もういちど声を大にして言います。

いわゆる「社会問題」なんてあるものか!!!!


あるとするなら、この社会の仕組みゆえに私が抱えている問題があるのであり、あなたが抱えている問題がある。そんな「私」たちと、「あなた」たちが、ともに生きているこの社会がある。


社会の問題とは、私の、あなたの、つまりは個々の問題としてまずは立ち現れるのであり、その問題ゆえの生きづらさに声をあげる者たちに対して、「社会問題には関わりたくない」「政治には関わりたくない」と、さらりと言える人々が享受している「幸せ」というものを私は思います。


これほど冷酷な「幸せ」もなかろうとも思うのです。
これほど分かち合うもののない「幸せ」もないと。