昭和のごくはじめまで、北関東の農村地帯では、

所により村の神社で縁日に風呂を湧かし、近在の農家の人々に湯を振舞う風習があった。境内には戸板を並べて駄菓子などを売る店が出て<御神湯>の幟が立ち、湯殿と並んで社務所には浪曲の一座がかかった。

 一座といっても親娘三人位で、母親の三味線に父親がケレンネタを読み、終わると司会者に早替りして、おかっぱの少女が「山椒太夫」などを語る。枕に〜雨の降る日は上州祭文、遊びに行くにもデロレンデラレン、とか、〜三日月様はなぜやせた、やせたはずだよやみあがり、などの謎かけをふっては村の人々を喜ばせた。人々は互いに食物を持ち寄り、遅くまで談笑にふけった。(玉川次郎談)


さらに山間部に入ると、時には湯治客相手の旅の浪曲師を見かけた。