たとえば「日本語」について

江藤はこう書く。
「それは、現在までのところ、沖縄方言以外に証明可能な同族語を持たぬとされている特異な孤立言語であり、時代によって、あるいは外来文化の影響をうけてかなりの変化を蒙って来てはいるが、なお一貫した連続性を保って来たものである。しかもそれは虚体であって実体ではない。ということは、私はそれを自分の呼吸のようなものとして、あたかも呼吸が自分の生存と存在の芯に結びついているように自分の存在の核心にあるものとして、信じるほかないということだ」

あるいはこう書く。
母語とは、「思考が形をなす前の淵に澱むもの」「私がそれを通じて現に共生している死者たちの世界―日本語が作りあげて来た文化の堆積につながる回路」「沈黙の言語」であると。


それを、この本の解説で、内田樹は、さらにこう説く。
母語は「沈黙の言語」であり、「虚体」であり、「死者たちの世界」との回路である。私たちはそれを呼吸し、そこから死者たちの脳裏にかつて一度も浮かんだことのない思念や、死者たちの舌にかつて一度も乗ったことのない音を掘り出すのである。死者たちとのつなながりが創造を可能にするのである。そして、創造を可能にしてくれる死者たちは誰にとっても一種類しかいない」

江藤がこの本で語っているのは、「死者」と「言語」と「創造」のかかわりについてなのだと、内田樹は語り、江藤亡きあと、江藤が立っていた場所に誰かが立たねばならぬと言う。

なぜなら、
「そこに立てば、「死者たち」が何を語ればいいのかを私に教えてくれる場所がもしほんとうにあるなら、そここそ私が立ちたいと切望している当の場所」であるのだからと。

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「死者たちの世界」との回路としての言語、死者たちとのつながりが創造を可能にする。
この言葉には、直感的に、そのとおりだと思う。

同時に、その回路が、死者たちの記憶を盗用するための、剽窃するための、恣意的に書き換えるための回路へと容易に転用されることの危うさと恐怖も瞬間的に直感的に感じる。

文学に携わる、思想に関わる、表現する、創造する、という営みは、本来的に、そのうちに、「死者たちの世界」との回路をわがものにしようとする者たちとの「果てない闘い」を抱え込んでいるのではないか。

そして、表現者自身も、いつでも、「死者たちの世界」との回路をわがものにしようとする欲望に転ぶのではないか。そこには、常に、「その回路はお前だけのものだ」という悪魔のささやきもあるのだから。

文学を紡ぐ者、思想する者、表現する者、創造する者が、悪魔のささやきに転んで「果てない闘い」を忘れたとき、「死者たちの世界」との回路としての言語は、「死者たちの世界」とのつながりを持たぬ「死の言語」へと瞬時に転落していくのではないか。


いまわたしたちの言語は、どれだけ死に瀕しているのか、
つくづくとそんなことを思った。