作家を変身させたり回心させたりするのはイデオロギーではない。彼の心に巣喰う「狐」の仕業である。そして「狐」の存在を知らぬ人間には、「狐」と闘いながら暮らしている人間の足跡はたどり切れない。
この秋成の「狐」をめぐって、江藤淳はさらにこう言う。
この「狐」は、秋成を江戸期の秩序の底にひそむ前代の土俗に回帰させるのではなく、むしろ『一個』の作者がそうであるような孤独な近代作家に近づけている。
近松−西鶴−秋成の流れの中で、一見、どちらもロマン主義に見える近松と秋成は西鶴を挟んで、そのロマン主義の質は、根本的に異なると江藤は言うのである。
崇徳院の亡霊はたしかにロマン主義の産物だが、このロマン主義は近松のそれとはちがってどんな共生感にもわれわれをみちいびいて行かない。秋成のロマン主義は閉ざされている
そして閉ざされたロマン主義の出現とともに、われわれは文学における近代を味わうのである。
なるほど、確かにそうかもしれない。人知れず心に巣喰う「狐」、「狐」と闘う孤独、閉ざされたロマン主義、そして近代的「個」