第一章 「戦後日本」に抗する戦後思想(中野敏男)

【問題提起】 
1.そもそも、本当に、敗戦によって日本は大きく生まれ変わったのか?

2.「天皇制」を戴く民主国家、日米安保体制とセットの「平和主義」、戦争が生みだした特需で繁栄を経済復興を成し遂げた「基地国家」、という現実と、「平和と民主主義」の「戦後日本」という物語の間には、都合の良い忘却と自己正当化があるのではないか。

3.きわめて内向きな「平和と民主主義」の戦後の物語、それを支える意識はいかに生成されたのか。
  (加害認識の封印と被害者意識の解禁はいかにして生成されていったのか)


<資料1>
1946年6月25日 衆議院本会議「帝国憲法改正案(日本国憲法)」をめぐる質疑における吉田茂の答弁

日本の憲法は御承知の如く五箇条の御誓文から出発したものと云っても宜いのでありますが、所謂五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情を唯文字に現はしただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本の国体であります、日本国そのものであったのであります、此の御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、「デモクラシー」そのものであり、敢て君権政治とか、或は圧制政治の国体ではなかったことは明瞭であります、……故に民主主義は新憲法に拠って初めて創立せられたのではなくして、従来国そのものにあった事柄を単に再び違った文字で表はしたに過ぎないものであります。


<資料2>
吉田裕『昭和天皇終戦史』P240

わたしたち日本人は、あまりに安易に次のような歴史認識に寄りかかりながら、戦後史を生きてきたといえるだろう。すなわち、一方の極に常に軍刀をガチャつかせながら威圧をくわえる粗野で粗暴な軍人を置き、他方の極には国家の前途を憂慮して苦悩するリベラルで合理主義的なシビリアンを置くような歴史認識、そして、良心的ではあるが政治的には非力である後者の人びとが、軍人グループに力でもってねじ伏せられていくなかで、戦争への道が準備されていったとする歴史認識である。そして、その際、多くの人びとは、後者のグループに自己の心情を仮託することによって、戦争責任や加害責任という苦い現実を飲みくだす、いわば「糖衣」としてきた。


<資料3>
本文P34〜35

たとえば一九四五年一二月の衆議院議員選挙法改正は、いわゆる「婦人参政権」を盛り込んだことで戦後改革の民主主義的性格を象徴する事件となっているが、この「改正」によって旧植民地出身で日本在住の朝鮮人や中国人は参政権を否定されることになった。また彼らは、「日本国憲法」が施行される前日の一九四七年五月二日に出された最後の勅令=「外国人登録令」によって、憲法による人権保護の対象からも外されている。そればかりでなく、そもそも戦後民主主義を基底をなす日本国憲法が、人権の主体を「国民」とのみ規定して国民以外を排除する点で、諸外国の近代憲法に比してもずっと国民主義的な性格の色濃いものとして作られたのである

※ 「旧植民地出身の日本人」から日本国籍を剥奪してゆくプロセスについても要注意。
※  戦前の国家主義の否定は、そのまま民族主義の否定にはならない。民族主義国民主義に合流してゆく流れに要注意。


<資料4>

1955年 日本共産党在日朝鮮人運動に関する方針転換、朝鮮人党員がすべて党籍離脱。
(その出発点にある五一年綱領 「米帝国主義による民族の被害という図式と植民地主義の忘却」)

本文P61
日本共産党の路線の変化は)天皇制という形をとった日本の帝国主義植民地主義の「加害」に抗する闘いが日本民族の被占領という「被害」に抗する闘いになることであり、解放軍であったアメリカが一転して帝国主義の元凶であり主たる打倒対象になるという、大逆転に帰結する。

※ そもそも戦後すぐには、日本共産党朝鮮人党員との間には「天皇制打倒」と「朝鮮の完全な独立」は連動しているという意識の共有があった。米国の極東戦略における「GHQによる天皇免責と天皇制の利用」と「南朝鮮を占領する米軍政による朝鮮人民共和国の否認」の連動がその前提。

本文P63
日本敗戦直後の再出発の当初は可能性としてあった日本共産党の国際主義は、五〇年代に入ると明らかに一つの民族主義に変質し、これもまた「戦後日本」という枠組みの中にすっぽり組み込まれることになった。

※日本の国家体制への抵抗勢力であるはずの共産党ですら、内向的な「戦後日本」の意識にのまれてゆく、「戦後日本」の構成要素となる。


<資料5>
竹内好「アジアのナショナリズム」より

アジアの上に重くのしかかっている帝国主義の力を除くためには、みずから帝国主義を採用するか、それとも世界から帝国主義を根絶するか、この二つの道しかない。アジアの諸国の中で、日本が前者をえらび、中国をふくめて他の多くの国は、後者の方向をえらんだ。……(しかし)ドレイが自由人になるためには、みずからドレイ所有者に変わるだけでは不完全であって、支配被支配関係そのものを排除しなくてはならない。


※ つまり、われらは「解放ドレイ」にすぎない、ご主人様の猿真似をする小賢しい解放ドレイ。


本文P66
すなわち、日本帝国主義の加害性は、日本人の主体に刻印されたドレイ性(魯迅的な意味で)と深く相関していて、前者が清算されない限り後者のくびきは維持し続けられると考えねばならない。だからこそ、加害責任を避けずに引き受けるとは、日本人のそのような主体性のあり方を根本から変えていくことであって、この意味で日本人自身の自己変革と自己解放の核心に関わっている、と竹内は見るのである。


日本人の自己変革と自己解放、その主体を「民族意識」に置くとき、民族感情を基盤にナショナルな責任主体を立ち上げようとするとき、問題は隘路に入ってゆく。


【応答 1】

本文P77

国民的主体に志向して内側だけで「平和と民主主義」を語る「戦後日本」は、その思想の構成を九〇年代のその時期(歴史主体論争の時期)までずっと変えずに来てしまっている。この上で、日本帝国主義の加害性は温存され、竹内の言うような日本人の主体に刻印されたドレイ性は清算されず、そして価値概念としての「戦後日本」も生き続けてきたのであった。


<資料6>
梶村秀樹「植民地と日本人」より


実際、歴史に登場する朝鮮植民者の生きざまは、ギョッとするほどすさまじく、弁護の余地なく邪悪である。庶民にいたるまで、ときには庶民が官憲以上に、強烈な国家主義者であった。かれらは朝鮮人に対して、国家の論理で完全武装した冷酷なエゴイストであり、あけすけな偏見の持ち主、差別・加害の実行者であった。朝鮮人のことならすみずみまで知っていると自負しているくせに、実は本当のことなどなに一つ知らないのだった。


※ 日本敗戦時点、植民地朝鮮に居住していた日本人は70万人以上。
  軍人・軍属を含めると敗戦時に国外にいた日本人は660万人以上。
  1983年厚生省集計によれば、敗戦時から1983年までの引揚者は朝鮮からだけで91万9903人
  総計で629万1820人。
  アジア太平洋戦争で外地で死亡した日本人は250万人以上。

「身近に植民地体験をまったく持たない日本人は、おそらく一人もいない」(梶村)

「確かに、戦後を生き延びた大部分の日本人にとって、「ギョッとするほどすさまじく、弁護の余地なく邪悪」な植民地体験というのは文字通り他人事ではない」(中野)



【応答2】

P82
重要なことは、この普遍的な植民地体験が、戦後の日本人の内向的で利己的な国民意識を形成する基盤になったと見なければならないことである。

<資料7>
梶村秀樹「植民地と日本人」より

それほど普遍的な植民地体験が、「邪悪なる国家権力と善良なる庶民」という体裁のよい図式だけで割り切ることを許さない屈折・錯雑とした深層意識を形作らせたことが、いっそう重要である。なにかに傷ついた心がそれだけ強烈に希求する権威への帰属意識、そこから出てくる利己的・独善的な国家意識とアジア認識。このパターンが、確かに今でも生き続け、受け継がれていることを感じる。


P83
植民地帝国としての日本の植民地主義が、日本人たちをむしろその底辺からからめとって侵略戦争と植民地経営に動員していった仕方は、そのまま植民地主義への批判を封じる仕組みと連動している。そしてしれは、日本人たちだけをアクターと想定する言説空間を前提とする限りでとても有効に機能するはずのものであった

国民的主体への自覚を呼びかける「戦後日本」の主体言説に抗して、民衆の植民地主義そのものを内在的に解体していくこと、これは世紀の変わった現在になお課題として残されている。


さて、これを、「声」の問題、、「語り」の問題と、いかに切り結ばせていくか、である。