「途上」は1974年に『海』に発表。

組織と個の関係。
「離脱すると廃人のようになるといっても大げさではない」


問われているのは、
在日朝鮮人が日本語で書くということ、
日本語で組織を批判をするということ、
その組織は国家になぞらえられているという現実があるということ、
朝鮮人の共同体は組織を離れてはなかったということ、



組織の枠には収まらぬ、むしろ超え出てゆかねばならぬ「表現」の問題。


具体から出発して、普遍へと向かう、表現という行為をめぐる問い。


この表現を支える思想、世界観、人間観は何なのか?



なぜ書くか、何を書くか、誰に向けて書くか、


「どうもおれたちは軌道から取り外された人間らしい。孔春三もおれと同じようなものなのだ。で、軌道がなければ一人で歩いてでも行くよりは仕方あるまいて。どれもこれも途上なのだ。われわれは途上に群れる顔、顔、顔のなかの一つの顔なのだ。馬達夫は自分がものを書いて行く以上どこへかは定かに分らぬが、そこへ自分を追い込んで行かざるをえないと思った。自分を追い込むことによってしか、自分を開いて行くことができない感じがする。これからもその途上は長いだろう」


途上をゆく者のよって立つところは、、
「ぐらっぐらっと揺れる」「まことにたよりないわが家」「生活にはいろいろと支障の多いおんぼろ家」「どことなくユーモラスで抜けたところばかりの」「愛すべきわが家、おれの根拠地、おれの仕事場」。