いまを生きるカタリを考えるために。 その1

敗者の鎮魂の物語として「古事記」を読み解く三浦佑之氏
「いくつもの日本」という問題意識で語りを読み解く赤坂憲雄

● 対話抜き書き

<市と物語をめぐって>
三浦「市という交易の場所は、話の交易の場所と理解していい」


赤坂「お話というのは閉じられた空間のなかに醸成されていくのではなく、さまざまな異質の人たちが出会う市のような場所、あるいは人々が行き交う街道のような場所に発酵して、さまざまに語り継がれていく」



オシラ祭文をめぐって>
赤坂「どうやらイタコという盲目の巫女たちがハレの日に語る祭文として、近世の初めあたりから明治の『遠野物語』の時代まで語り継がれていたらしい。おそらく羽黒系の修験とイタコが管理する口伝えの秘伝として継承されてきた歴史をもっているはずです


赤坂「盲目のイタコたちがはたして、みずからが語っていたオシラ神の祭文を創作することができたかというと、それはむずかしいでしょう。遠野地方では、イタコは山伏と夫婦関係にある場合が多かったようです。山伏たちは野にあって最高の知識人だったわけですから、いろいろな文献の知識を寄せ集めてオシラ神祭文をつくることができたはずです。漢文のオシラ神祭文はあきらかに、中国古代の小説集『捜神記』などを知っていた山伏たちが創作したものであり、さらに山伏がそれを妻であるイタコたちに与えて語りもの化したものと考えられます。そして、そのイタコの祭文語りがくりかえされるうちに、オシラ神祭りを主宰する家巫女たちによって昔話へと置き換えられ定着していった。そう、わたし自身は想像しています。こうした流れが三種類のオシラサマの話から見えてきます。これは『遠野物語』に収められた昔話としての「オシラサマ」を起点とした場合には、けっして見えてはこないものです。」

※(三種類のオシラサマの話:漢文で書かれたオシラ神祭文、イタコ系の巫女が語ったオシラ神祭文、遠野物語に収められた民話化したオシラ様の物語)



<『遠野物語』第99話 明治の三陸津波を背景とした福二さんの話をめぐって>


遠野物語第99話
土淵村の助役北川清と云ふ人の家は字火石に在り。代々の山臥にて祖父は正福院と云ひ、学者にて著作多く、村の為に尽くしたる人なり。清の弟に福二と云ふ人は海岸の田の浜へ婿へ行きたるが、先年の大津波に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。

夏の初の月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遙々と船越村の方へ行く崎の洞のある所まで追い行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひたる。

男はと見れば海波の難に死せり者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてあると云ふに、子供は可愛くは無いのかと云へば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物言ふとは思われずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。




三浦「わたしはやはり、語るということは死者と向き合うということなのだと思います。ふつうにそこにいる人間に対して語っているのではなくて、語りの先にあるのは死者なのではないか。『平家物語』などを見るとわかりますが、これは琵琶法師が語るものです。こういう語りの行為というのは、目の前に現れてきている死者たちを鎮めるため、いわば鎮魂のためです。(中略) 死者を鎮めていくもの。そう考えていくと、こういう話がずっと受け継がれて語られていくことの意味、あるいは昔話を語るということがどういう役割をもっていたのかということも説明できるのではないか」


赤坂「もしかしたら、中世などは随行僧のような宗教者がついていて、戦場では弔うと同時に彼らが小さな鎮魂の物語を紡いでいたのかもしれない。それがいろんなところに生まれて、やがて『平家物語』のような大きな物語のなかに流れ込んでいくのかもしれない。宗教と芸能を架け渡すことを役割とする人々がいて、彼らが死者の鎮魂にしたがいながら、同時に物語をうみだしていたのかもしれない


三浦「折口信夫は、巡り歩く宗教者としてのホカヒビトという存在を芸能者の問題として大きく取り上げていますが、そこには、物語の伝承と死者の鎮魂といった面がきわめて強く結びついているということを考えているのだと思います。それらの芸能や語りは、生きた人間に向けてというよりは、目には見えないモノたちに向けられているはずです。


<物語/昔話をめぐって>

三浦「昔話というのは(中略)子どもたちにとって一番最初に体験する物語世界ですよね。伝達としてのことばではない、もう一つとしての機能としての言葉というのを身につけるのはおそらく昔話だったのだろうと思うんです。耳だけで体験することによって想像力をふくらませることができる。これが、昔話の一番大きな役割だった。物語をたくさん聞くということは、たくさん語れるということでもありますよね。だから、豊かに物語を生みだせるというのは、明らかに自分自身というものを作っていくうえで欠かせない行為だったのだろうと思います」



<テクスト以前の世界を想像できるか――くりかえされる「文字と語り」の問題>


赤坂「歴史の文献史料のなかには、そうした古事記日本書紀の共通のルーツであるXは出てくるのでしょうか」


三浦「旧辞(ふること)とか「帝紀」とか呼ばれる名称としてしか存在しません」


赤坂「旧辞と書いて「フルコト」といっている世界には、文字のテクストを編もうという動きや欲望があった。そして、その前段にあるのは語りですね。つねにこの「文字と語り」の問題は反復されている気がします。もしかしたら、文字化するという欲望こそが、語りを語りとして顕在化させているのかもしれない」


赤坂「共同性と共同体とはまったく異質な次元に属しています。共同体を形成し維持するためには、外なる世界に向けての恐怖の共同性を掟や禁忌として組織することによって、人々を内向きのベクトルにおいて縛るだけでは足りません。たとえば、共同体の内側に避けがたく堆積するケガレを祓い棄てるためには、物語や祭祀といった仕掛けが不可欠であり、その担い手はいつだって外なる世界につながるマレビトだったのではないか。


赤坂「語りというのは曖昧模糊として感じられる。けれども、それはつねに多様性や多数性に向けて開かれているともいえますね。文字テクストは「ひとつ」を志向するが、きっと語りは「いくつも」を避けがたく抱え込んでいるのですね。


三浦「もちろん文字テクストも多様性はあります。「語り」はそうしたテクストの多様性とは比較にならないほどの多様性を持っている。語り手ごとに違うし、同じ語り手でも聞くたびに違います。こうした「語り」の多様性という問題を背景におかないと、おそらく「語り」の問題には肉薄できない。そうした「語り」のもつ性格を意識していないと古事記は読めないと思います。これが正しいとか、正しくないとかいうのも違っていて、全部正しいと思わないといけないのではないでしょうか。