いまを生きるカタリを考えるために。その2 石垣島から

石垣島のユンタの名手山里節子さんは、昭和12年生まれ。生後間もなく、母親が病気で郷里の新潟に療養に戻ってしまったために、明治生まれの祖母に育てられた。
だから、節子さんは、明治の、日本語を話さなかった石垣島のおじいおばあたちが話していた島言葉を今も話すことができる。節子さんの知る限り、自然に、身に着いた形で、島言葉を今でも話せるのは、石垣市登野城のユンタの会では、節子さん以外には、上地のおばあだけだという。

ユンタは、島言葉を知らなくては当然に歌えない。戦後、石垣島の農業が急激に近代化されていく中で、ユンタやジラバといった石垣島の風土と暮らしが育んできた唄の自然な継承の場が失われていき、テクストを見ながら練習して身に着けるものへと変容していった。

1970年代のユンタの会の歌声と、今のユンタの会の歌声では、テクストを見て覚えて歌う者が圧倒的に多い今のユンタの会の歌声のほうが、圧倒的に迫力に欠ける。

ちなみに、↓ これは1970年代のゆんた。
https://youtu.be/owfZDIxWBdk



本来、島言葉は、母音は7つ、
しかも、同じ物を指すのでも、隣同士の集落の登野城、新川でも発音は変わってくる
とぅばらーま(唄)になると、ひとりひとり節回し、発音が変わってくると。
それが唄の本来の姿。
歌う者が歌の主、という言葉の所以。


人間の声というのは、本来、自由なのだと山里さんは言う。

ところが、厄介なのは、たとえば三線を奏でながら歌う唄三線をやるようになる、それはそれで音曲としてはひとつの発展なのだろうが、譜面にしうる音曲となったとき、生きている声の肌触りや角張ったところ、ざらつきが、楽器の作る旋律でなめらかにされてしまうのだという。

たとえば、島言葉にしても、50音の日本語を学んだ体は、五十音の文字で声を縛られて、豊かな母音も、日本語の5つの母音に押し込めらて、島言葉で語る声は失われてゆくのだという。

島言葉で語りだされる声、唄、語りが失われるということは、島で生きてきた人々の記憶自体が失われてゆくことにも等しい。

日本語という「文字」が、日本に生きる日本語以外の言葉を話して生きていた人々から何を奪ったのか、ということを考える必要がある、ということを山里さんの話は教える。

それはなにも石垣島だけの話でもないだろう、日本という近代国家成立以前には、そして標準語なるもので様々な言葉、様々な声がローラーをかけられる前には、日本列島自体にも、それはもうさまざまな土地の言葉があったはずなのだから。