東京都あきる野市二宮には、かつて二宮芝居と呼ばれる歌舞伎集団が存在した。

※以下の記述はすべて、『多摩のあゆみ』第107号 特集「神楽、神楽師」に拠る。

この集団は神楽師によるもので、多摩地域を中心に盛んな活動を繰り広げていた。
二宮の神楽師を取り仕切っていたのが、古谷家。陰陽師でもある。
(古谷家と関わりの深い南秋津村神楽師熊川家、埼玉県入間郡竹間沢村の神楽師前田家も陰陽師。土御門家の支配下にある)

古谷家は、江戸期には、湯立神楽、太太神楽を演じ、明治になると他の芸能を積極的に取り入れていく。
神楽師は周辺の村むらを檀那場として持って、神楽を奏上してまわった。


明治6年(1873) 古谷平五郎が説経祭文 薩摩君太夫襲名。
明治10年(1875)古谷平五郎が6代目薩摩若太夫襲名。(これ以降、説経祭文は多摩地域に拠点が移る
明治12年(1879)平五郎嫡男 古谷安平 「車人形使創業願」。車人形興行。

さらに、大正初期までに、面芝居、新派、歌舞伎を次々と導入。

大正2年(1911) 二宮歌舞伎 本格的興行の開始。

(二宮歌舞伎の太夫元には、栗沢家もある。栗沢家は古谷家からの分派。)


神楽師たちが芸能集団化していく背景の一つには、神楽師間のネットワークがあった。


<家と家との結びつき>

二宮の古谷家は、埼玉県入間郡竹間沢の神楽師・前田家、同じく入間郡南畑村の神楽師・鈴木家と姻戚関係にある。
古谷平五郎の長女ていは、嫁入り道具として前田家に三味線と人形を持参、説経祭文と車人形を伝えた。

前田家の「吉田三芳座」は、地元だけでなく、埼玉県内各地、千葉県成田、神奈川県江の島鎌倉方面まで興行。
里神楽、車人形だけでなく、古谷家と同様、面芝居、歌舞伎、新派も演じた。
古谷、前田両家は相互に助け合った。


<より広範囲の神楽師同士の結束・交流>
天保十二年辛丑歳二月祓講一統連印帳」文書に、相模・武蔵の二六名の神楽元締めの連名・連印。
埼玉・多摩・神奈川の神楽師たちの連帯。


天保10年(1839)年12月1日の記録として「指田日記」という史料には以下の記事がある。
「先日より二ノ宮古谷氏弟来り、若者十人斗りニさいもんヲオシへ、今日稽古仕舞ニテ惣連サライアリ」
「指田日記」は、中藤村(現・武蔵村山市)の陰陽師指田藤詮(ふじあきら)の日記。


●「南秋津村神楽師熊川家の家職と活動」(小峰孝男)より
「(説経祭文の)家元は代々薩摩若太夫を名乗った。五代目家元は板橋仲宿の人で本名を諏訪仙之助という。中村屋を屋号とする神楽師でもあったといわれている。生まれは文化八年(1811)で明治10年(1877)に没している。埼玉県や多摩地域に広まった系統はいずれも五代若太夫からでたものといわれる。神楽師は幕末になるにつれ芸能者としての色彩がさらに濃くなり、神楽の興行ばかりでなくほかの芸能に職掌をひろげていく。その背景には民衆の強い要望があったのである。江戸周辺の地方の神楽師が説経の伝承に積極的であり、写し絵や車人形などとあわせた興行も各地で盛んになっていった」


●「二宮の神楽師『古谷家』」(小黒まや)より
「二宮の神楽師は神社に専属の神楽師ではなく、村や寺社の祭礼に呼ばれ、そこで芸能を奉納し報酬をもらう買芝居形式で口演をしていた。祭礼の際、どの芸能や狂言を上演するかについては頼む側(村人)が決定し、神楽師はその要望に答えなければならない切実な状況であった」

「二宮の神楽師達は、各地の祭礼に呼ばれ、全盛期には年間二〇〇日ほどの興行をし隆盛をきわめた」


二宮歌舞伎の終焉は昭和三七年。