かつて、神楽師(陰陽師)と瞽女の争いがあった。それは天保二年(1831)のこと。新座郡大和田の瞽女が、南秋津村の陰陽師

当事者の瞽女は久米村(所沢市)の座頭歌一の配下にある。

瞽女仲間は従来陰陽家と付き合わない、という瞽女側の姿勢に対して、怒った陰陽家のほうから瞽女が暴力をふるわれたり、(天保2年 1831)

あるいは陰陽家に門付けをするには「門明すすぎ金」という名目の金を差し出せという瞽女・座頭の要求に対して陰陽家側(入間郡入間川村の石山美濃)が奉行所に訴え出るということがあった。(文化4年 1807)

石山美濃は、初代薩摩津賀太夫

これに対する「南秋津村神楽師熊川家の家職と活動」の中での筆者小峰孝男氏の見解。
「近年まで村々で活躍していた瞽女の語り物の中には説経を題材にしたものが多い。なかには説経台本をそのまま瞽女が使用していると思われるケースもある。すなわち説経という芸能ジャンルの重なりが両者の溝を深めたのではあるまいか」


なるほど、要検討。