要は、説経、伝説、浄瑠璃を取り込んで、幕末に、寺を盛りたてるために巧みに創られたお話なのです。


※以下の記述は『北越の百合若伝説 上・下  ―地方における伝説の生成と変容― 』(板垣俊一)による。

北越の百合若伝説」とは、
新潟県北蒲原郡聖籠町諏訪山にある真言宗新義派(智山派)の寺院 聖籠山宝積院 観音寺にまつわる伝説。

越後29番 蒲原27番 聖籠山観世音略縁起
「抑々当山に安置し奉る十一面観世音菩薩併に二王尊は泰澄大徳の御作にして霊験新たの三尊なり。その由来を尋ね奉るに人王三十九代 天智皇帝の二年蛮国より百済国に敵するに仍つて百済より本朝へ救を乞しかば皇帝築(筑)紫の木の丸殿へ御幸あり其頃豊後の国の太宰の和田丸とて武勇比い無き壮士あり 百済を救ふに百合余の戦に理を失ふことなし異国人百合弱(べかじゃく)と云ひしを自然と百合若大臣と称ふるとかや。其の後嶋々の夷を平ぐべしと勅命を蒙むり蝦夷松前より当国へ渡り此の山の洞より名鷹を得られたり緑丸と名付けて深く愛せり、鷹も忠を尽すこと限りなし。其の後人王四十五代 聖武天皇の御宇天平九年泰澄大徳当国の国上山に雷を縛し夫より此の地に来り百合若を思へ彼の緑丸が菩提の為に此三尊を彫刻し末の世に仰ぐべしと云々。而して後人王五十一代 平城天皇の大同元年何処国ともなく異人来りて堂舎を建て、此聖者を籠め奉るが故に聖籠山と名付けたり。星替わり霜移りて慶長十三年太守秀勝公信仰有りて本堂併に二王門を建て永く国家鎮護の道場となりて一度結縁の輩は二世の求願むなしからざらん。委くは本縁起にゆづりて文略如件   宝積院和南」

この「略縁起」は、観音寺が宝積院として再出発した大正5年以降に作成された可能性が強いとされている。
そして、これが現在の観音寺の由緒のもとになっているが、これに落ち着くまでに、さまざまな変遷の跡がある。


まず、慶長13年(1608)の由緒書では、
「百合若大臣の時代に緑丸という鷹の菩提の為に堂舎が建立された」と大雑把な言い伝え。


次に寛文7年(1667)の棟札では、
「百合若大臣が緑丸菩提の為に観音堂を建て、本尊十一面観音と金剛神とを安置した」という伝説を伝える。

天明2年(1782)『越後順礼』では、
聖籠観音は行基作とある。


明治23年(1890)雑誌『温故の栞』においては、
観音寺は百合若大臣の建立。十一面観音は行基作とする。 


ところが、
明治5年10月に観音寺22世快珠法師が内務省に提出した由緒書には、百合若伝説はない。
新潟県蒲原郡諏訪山新田の聖籠山観音寺は、新義真言宗新発田宝積院末で、大同元年丙戌年、越智泰澄上人の創立開基である。中世慶長十三年申年に到り、新発田旧藩主溝口伯耆守秀勝公、これを厚く信向(ママ)して堂塔を建立す。安政五午年恵超法師の時今の法流を開基す、云々。」
しかも、略縁起では大同元年に「異人」が堂舎を建立としているところを、泰澄上人開基としている。
だが、大同元年には白山信仰の開祖泰澄は既に没している。
これはとりあえず、お上に対して、物語的な部分を取り除いて体裁を整えて由緒を出したにすぎないものと思われる。
この由緒書で重要なのは、「安政五午年恵超法師の時今の法流を開基す」の部分。


安政5年、観音寺が新発田藩との密接な関係を離れ、広く一般信者を獲得しようと動き出す。
周辺地域で同寺の十一面観音に詣でる観音講が盛んになってゆく。
安政6年 観音堂再建に伴い、寺の縁起が改変される。という道筋が推測されている。


安政6年 新発田の博覧強記の知識人である大野紳が寺の依頼により、観音堂の「上梁文」を書く。

<上梁文>
突然起於田間如盆石。然而忽籠森鬱不知其幾星霜、名之聖籠山。昔在山中生異鷹。天智年間、太宰和田麿奉命征伐四夷至無敵、百合皆勝。夷人畏服称百合若大臣。若猶少也。邦人諱弱易以若字。百合若者猶百合貴郎也。北征之次獲是異鷹而愛之。名曰緑丸。後復征北狄久而不帰。家人察緑丸意容綴翰嘱以使命。於是低首皷翼奮然穿雲将達而労死。大臣得其翰与骸哀惜之甚。乃匣層以帰葬之故山。顛末殆郭氏鳴後大同元年、釈氏泰澄十一面観音安之以寓大臣及緑丸忠功。史雖不載千歳口碑猶存。藩主溝口侯慶長戊申移封於越後州蒲原郡、信以伝信、疑以伝疑。乃追慕其忠功欲使士農工商不忘其美跡。遂令宝積院観音寺併而守之。……(略)…… 安政六年己未六月二十六日  大野紳(耻堂)謹識  観音寺住持恵超謹書


●畠山泰全の軍記物『大友真鳥実記』(元文2年 1737)をふまえた「太宰の和田丸」「百合弱=百合若」の記述の登場。

●「上梁文」より初めて登場の「太宰和田麿(太宰の和田丸)は、近松門左衛門作の浄瑠璃『百合若大臣野守鏡』にも登場。

●十一面観音作者は行基から泰澄に変わる。(ただし大同元年の作とされる)
行基から泰澄への変化は、安政年間に観音寺が真言宗新義派になったからと推測されている)

つまり、
観音堂再建に伴う、観音寺の財政問題解決のための布教範囲拡大をめざして、地元知識人の力を借りて寺の由緒を耳目引くよう整えた。
それが現在の観音寺に伝わる「百合若伝説」の基礎となった。


「略縁起」は、この「上梁文」をもとに、泰澄登場の年代に矛盾が生じないよう、内容をさらに整えたと推測される。

●泰澄が観音を刻んだのは天平九年である。とする

●大同元年に名のわからぬ聖者が到来して堂舎を建立。とする。


これで矛盾も消えて、OK!!


こうして、公定の史実に矛盾しない範囲で偽史を創るという近代精神のもとに、あるいはフィクション色を消して神秘感を残すという操作によって、新たな伝説が創られ、流布することとなった。