そもそも、現在観音寺がある場所は、かつて諏訪神社があったと伝えられている。
それが、加賀・能登方面からやってきた白山修験の影響で、まずは観音堂に取ってかわられたと推測されている。
(泰澄伝説と観音信仰の密接な結びつき)
★能生―米山―国上山―弥彦―沼垂―聖籠 と、越後の白山信仰を辿ることができる。
たとえば、越後の観音堂としては、名立町岩屋観音堂も観音像を泰澄作とする伝説を伝える。
『北蒲原郡の自然と文化』(1929 池上綱他郎)によれば、
「大化三年蝦夷の襲来を禦ぐため郡内に柵を置き之を守者、諏訪村の丘阜に諏訪の神を勧請す是を本社建立の初めとす、後釈泰澄、社傍に梵宇を営み観音を安ず為めに本社は圧倒され頽廃せしが、建仁年中佐々木盛綱鎌倉の命により社殿を造営せり」
この「諏訪神」と「蝦夷征伐」の記憶が、観音寺略縁起の「蝦夷征伐する百合若」へと流れ込んでいったのではないかとも推測されている。
そして、なにより、
百合若、というよりも、「緑丸の伝説が山伏など勧進聖たちの唱導に用いられたのではないか」という推測があり、その根拠の一つとして、百合若説経のそもそもの性格が挙げられている。
「壱岐の百合若説経も病魔退散のために巫女によって語られる弓祈祷の詞章であり、百合若の物語がかって悪霊退散のために語られた宗教的意味をもっていた、という折口信夫博士の説を裏付けるものである」(前田淑『日本各地の百合若伝説 (上)』)
「百合若大臣について、今日確認できる聖籠の杜の最も古い伝説は、この杜の観音堂が緑丸という鷹の菩提のために百合若大臣によって建立されたというものである」
以下、
2015年11月1日の聖籠山宝積院訪問時の記事
http://d.hatena.ne.jp/omma/searchdiary?word=%C0%BB%CF%B6