「北越の百合若」について。参考までに。 江戸の儒学者、すげーーという話。何がすごいって、朝鮮語の知識まで駆使して軍記物の注釈を書くわけよ。そんな注釈に目を通して、寺の由緒書に流用する地方の儒学者もいるって話で。

いや、今の知識人たちが欧米の言語をすらすらペラペラ操るのと同じように、中華の世界観の中に生きる知識人たちが、中国・朝鮮の言語を操ったところで驚くこともないはずなのだけれども、すっかり近代以降の頭で生きている私は、やはり、うっかり、すげーーーと驚いてしまうわけです。


それはともかく、

『大友真鳥実記』(元文2年 1737)の作者畠山泰全は、他にも『小栗実記』『三楠実記』といった軍記物を書いている。

『大友真鳥実記』は遺稿として出版されたもので、畠山泰全と親しい関係にあり、出版以前におそらくこの『実記」の内容を知っていた穂積以貫が竹田出雲にアイデアを授け、『大内裏大友真鳥』(享保10年 1727)がなったと推測されている。


それ以前、畠山泰全『小栗実記』において穂積以貫が物語に注釈を加える形で、「按ずるに」といった言葉ではじまる添え書きを書いている。


また、自著『浄瑠璃文句評注難波土産』(元文3年序)の巻の三「大内裏大友真鳥評注」において、「其実記は近年板行なりし大友真鳥実記といへる軍書にくはしく記せり」とある。


下記の「大友真鳥実記」巻一の「按」もまた穂積以貫が書いたのではないかと思われる。

右の本文に出たる太宰の和田丸も、豊後の住人にして、基本何人(いずれのひと)たる事知らず。今度異国の戦場に廔合戦ありしゆへ、唐兵の異名に百合弱(べがじゃく)と呼ける由。此意は彼楚の項羽は、漢の高祖と七十合の戦なりしが、今の和田丸は其上にて、百合弱(ひゃくがふたらず)も戦ふべしと云義なり。百合とは百たび合戦すと云ふ心。弱はたらずの義。百合弱の三字にて、百度たらずの合戦をする人なりとの意とかや。吾日本にては、百合の二字を百合(ゆり)と訓じ、弱の一字を弱(わかし)とよむゆへ、遂に本朝の俗百合弱麻呂と稱じあへり。是も大臣を呼名として、或は百合弱大臣とも云ひなせり。今の俗玄界が嶋にて、郎等別府野心を起せし説あり。其拠ある事にや。



穂積 以貫(ほづみ いかん/これつら、元禄5年(1692年) - 明和6年9月22日(1769年10月21日))は、江戸時代の儒学者播州姫路に、和算家穂積与信の子として生まれる。通称伊助、号は能戒斎。京の伊藤東涯に師事し、古学派堀川学派に属する。はじめ柳原家に仕え、のち大坂で学塾を開いた。竹本座との関係が深く、その著「浄瑠璃文句評注難波土産」に、近松門左衛門の「虚実皮膜論」が記してあることで知られる。そのためか、次男は近松に私淑して近松半二を名乗る浄瑠璃作者となった。著に『論語国字解』などがある。 (wikiより)