山から里に下りてきた山伏たちのゆくえ 

もともと「祭文」は、神や仏に祈るときに唱せられる祝詞・願文であった。


中世に入ると、修験者や巫女が、仏教の声明の曲節で、願い事を唱えたり、自分たちに縁のある寺社の縁起を語るようになり、それも祭文と呼ばれるようになった。


山から里に下りてきた山伏たちは、俗人勧化のために、錫杖を鳴らし法螺貝を吹いて神仏の霊験を説いた。しかし堅苦しい説法では誰もきいてくれないので、節を付けて唄うように語った。それが今に伝わる「祭文」語りの原型である。


江戸時代になると、山林修行の修験道とは全く関係なく、祭文を唱えて歩く遊芸民が現われたが、その語りの内容も俗受けするものに変わっていった。


すなわち「小栗判官」「山椒太夫」「俊徳丸」「信太妻」「刈萱」など、室町後期から説経節の「五説経」として広く親しまれていた説話・物語を語り歩いたのである。


彼らが「説経祭文語り」と呼ばれた。



※参考 和歌森太郎『山伏』より

「市場祭文」(延文六年 1361 武州文書にある)
それ市といっぱ私のはかりごとにあらず
伊勢天照大神 住吉大明神の
御はかりごとなり


市場の祭は、市場の守り神である市姫を祭ってなされる。
市姫の祭主になるのは市子と言われた巫女。
神を齋く(いつく)、よって市子(いちこ)
市場とは、斎場であり、祭場だったのである。

中世においては、市子などの巫女が各地を遊行したこと、あたかも山伏の地方往来と同じであり、しばしば山伏、巫女が接することもあり、おそらくはその縁で市子に求められて、山伏が祭文などを作ったのだろう。


江戸時代には、そうした祭文もまったく娯楽的な歌祭文に変っていくが、それとともに法螺貝や錫杖は持つけれども、本来の山伏とはちがった似非山伏が、祭文語りにもなっていったのである。さらには錫杖が三味線に変り、祭文が浄瑠璃調のものに変ってしまった。


『声曲類聚』歌祭文の項
「祭文は山伏の態なりしを小唄を取り交へて作り、のち三味線に合はせて歌ひけるなり、昔は祭文を読むといふ。今は語るといふ也」